第35話 035

産声は、私のものではなかった

「お連れします」

その一言で、息子は、ミリアの腕から離れた。

産声うぶごえが、まだ部屋に残っていた。

羊水ようすいと血の匂いも、寝台に。脚の間のて布は、まだ赤い。

それなのに、息子の体だけが、もう別の女の腕にあった。

「……あの、待って」

声が、掠れた。

「待って、まだ、お顔も……」

世継よつぎ様にございます」

老乳母ろううばは、それしか言わなかった。それで全部だった。

きぬのおくるみに包まれた小さなかたまりが、視界の端を白く横切っていく。

誰かが扉を開ける。誰かが扉を閉める。

廊下を遠ざかる足音の中に、き声が、混じっていた。

ミリアの、産声が。


妃殿下ひでんか候補。よくぞ、お務めを果たされました」

王太后おうたいごうが、寝台の脇に立っていた。いつから、そこにいたのか。

出産の間、確かに彼女は部屋の隅にいた。「立ち会い」ではなく、監督として。

「アルバート王家の世継ぎを、ご無事にお産みくださり、感謝いたします」

冷たい指が、汗ばんだ額を撫でるように拭った。

「これからは、ゆるりと、お休みなさいね」

蜜のような声音だった。

養育よういくのことは、こちらで全て差配しますわ。あなたは産むという尊いお役目を、見事に果たされたのですから。もう、お休みになって、いいのですよ」

──もう、お休みに、なって、いい。

優しい響きのはずなのに、背筋がすうっと冷えた。

それは、果たした者への労いではなく、にかける言葉だった。


王太后が去ったあと、侍医がようやく寝台に近づいた。

「血が、まだ多い気がいたします」

ミリアは、震える指で、敷布しきふの赤い染みを指した。さきほど替えたばかりのて布が、もう重く湿っている。これがふつうのことなのか、自分では、もう判じることもできない。

「下腹も、こうして横たわっているだけで、しぼられるようにうずきます。指の先まで冷えて、寒いのに、汗ばかりが滲んで──」

産んだ体が、内側で静かにきしんでいた。痛みよりも、このだるさの底が見えないことが怖い。

侍医は、白い眉を寄せた。

「ご出産直後ですから、大袈裟おおげさになられるのは皆様同じでございます」

事務書類を読み上げるような声だった。

「世継ぎ様にお障りがあってはなりませぬ。お気を強く、しっかりお持ちくださいませ」

その「しっかり」が、首を薄くめた。

「……ええ。ありがとう。心強いわ」

ミリアは、聖女候補にふさわしい、花のような微笑みを浮かべてみせた。

──何が、しっかり、よ。

そのにこやかな仮面の裏で、舌打ちひとつぶんの熱が燃えていた。

──医者なら、薬のひとつも出しなさいよ。気の持ちようで血が止まるなら、あなたは何のためにいるの。痛いのは、わたくしよ。

侍医は深く頭を下げて、出ていった。


夕方。

寝台の脇に、新しい書類の束が置かれた。

「明日御発布ごはっぷの、教会への寄付増額の御名義、こちらに署名を」

侍女が涼やかに微笑む。

「世継ぎを産んだ直後のお名前は、もっともとくが高く、民が安んじます。として、初めての御務めにございます」

羽根ペンを、差し出された。

産後、半日。

下腹は脈を打って痛み、指は震え、視界は二重に揺れる。

それなのに、誰一人、これをおかしいとは言わなかった。

ペン先が、紙に触れた。

震える手で、一字ずつ、自分の名をつづる。

──ミリア・ロウ。

「結構でございます。さすがは、御立派な御名にございます」

侍女が、うやうやしく書類を引き取った。

ミリアは、つかれた頬に、それでも品のいい微笑みを返してみせた。

──馬鹿にしているの?

紙の上でだけ「ミリア・ロウ」を書かせて、口を開けば「世継ぎ様の母君」。都合のいいときだけ、名前を引っぱり出すのね。

──わたくしは、ミリアよ。「世継ぎ様の母君」なんていう名前の女じゃない。

そう言ってやりたいのを、花のような笑みの裏に、そっと畳んで仕舞った。


夜。

寝室は、しんと静かだった。

別棟は、遠い。どれだけ耳を澄ましても、息子の泣き声は聞こえない。

ミリアは両腕を、自分の胸の上で重ねた。

少し前まで、ここに重みがあった。腹をくようにして出てきた、ぬくもりの塊が。

頬に触れた、その感触も。

抱いたのは、たった数十秒。

ミリアは、暗い天井をにらみつけた。

花のような微笑みは、もうどこにもない。歯を食いしばったおにの顔だけが、闇に浮いていた。


同じ夜。大公国たいこうこく、執務室。

ロザリンドは最後の書類に決裁印を落とし、ペンを置いた。今日のぶんは、これで片づいた。

「閣下、本日はここまでで」

「ああ」

ルーカスは執務机の向こうで、紅茶のカップに口をつけていた。窓の外は、すっかり夜。

「祖国から、また使者の問い合わせが」

「来春までの面会は受けません、と返してください」

「承知した」

それで終わりだった。

小さく伸びをして、椅子から立ち上がる。廊下を歩きながら、ふと北の空を見上げた。

星が、よく見えた。

「……アルバートのほうも、晴れているといいわね」

理由のない独り言。もう、自分とは何の関係もない空のことだ。

冷たい夜気が、頬に心地よかった。

同じ夜空の下で天井を睨みつける者がいるとも知らず、ロザリンドは穏やかに目を細め、自室の扉を開けた。


そのころ祖国では。

ミリアの寝室の窓から、別棟の方角に、灯がひとつともった。

夜の授乳じゅにゅうのための灯だった。

別の女の手で、別の女の腕の中で、ともされた灯。

ミリアは寝台の上から、その灯を、ただ見ていた。

──いいわ。今だけよ。

──私は聖女。神に選ばれた、成功を約束された人間。こんなもの、すぐに好転するに決まっている。

──少しつまずいただけ。本当の私の居場所は、こんなところじゃないわ。

根拠は、どこにもない。それでも、そう信じることだけが、いまのミリアにできるすべてだった。

別棟の灯は、夜中になっても、消えなかった。

第35話 産声は、私のものではなかった

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『王妃という名の社畜2.0、お断りします』は、前世を思い出した悪役令嬢が、自分の人生を取り戻す物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。