第58話 058

ミリアの夢

北の外れの、小さな修道院だった。

ミリア・ロウは、与えられた粗末な寝台の上で、膝を抱えて座っていた。窓には硝子もなく、板の隙間から、冬の風が、針のように吹き込んでくる。

こんなはずじゃなかった。

その言葉だけが、もう何ヶ月も、頭の中をぐるぐると回っていた。

私は聖女なる人間だった。王太子に望まれ、誰よりも美しく、誰よりも愛されるはずだった。それなのに、どうして。

あの責任逃れの女が、全部、裏で仕組んでいたのだ。教会の老人たちが、私を切り捨てたのだ。アルフレッド様が、新しい女に乗り換えたのだ。

──私は、なにも、悪くない。

凍えた指先で、ミリアは、何度もそう繰り返した。


その夜、ミリアは寝台を抜け出した。

裏手の、凍りかけた古い井戸の縁に、ぼんやりと腰かけた。底は、暗くて見えない。覗き込めば、吸い込まれそうなほど、深かった。

もう、いい。

誰も私を呼ばない。「ミリア」と呼ぶ声も、とっくに消えた。世継ぎ様の母君。聖女候補。偽物。──そんな名前ばかりが、私を通り過ぎていった。

産んだあの子の顔さえ、もう、思い出せない。

ここで終わりにしても、誰も困らない。誰も、泣かない。

ミリアは、井戸の縁に、片膝をかけた。

「──冷えるねえ」

声がした。

振り返ると、ひとりの老いたあまが、提灯をさげて立っていた。この修道院でいちばん年かさの、ハンナという名のシスターだった。

ミリアは身構えた。叱られる、と思った。説教が始まる、と。

けれど、ハンナは、ただ井戸の縁に、よっこいしょ、と腰をおろしただけだった。

「いい井戸だよ。水が、甘い。──明日も、汲まなきゃならないからね。落ちられちゃ、困る」

それだけ言って、皺だらけの手を、ミリアの背に、そっと添えた。

引き戻す力は、ほとんどなかった。なのに、ミリアの膝は、ひとりでに、縁から降りていた。


それから、奇妙な日々が始まった。

ハンナは、ミリアに何も求めなかった。反省も、感謝も、祈りさえも。ただ、毎朝、淡々と働いた。

井戸の水を汲み、固いパンを焼き、熱を出した子供の額を冷やし、誰も見ていない床を、黙々と磨いた。

ミリアは、最初、指一本動かさなかった。こんな下働き、私のすることじゃない。男爵家の長女で、聖女候補だった私が。

ハンナは、咎めなかった。動かないミリアの分まで、黙って働いた。

ある日、雪で薪が尽きた。ハンナは高い熱を出して、寝込んでいた。

火が消えれば、寝ついた老人たちが、凍える。

ミリアは、しばらく、寝台の中で耳を塞いでいた。──誰かがやればいい。私のせいじゃない。

けれど、誰も、来なかった。

気づくと、ミリアは外にいた。凍えた手で、震えながら、薪を割っていた。生まれて初めて、自分の手の皮が、めくれて血が滲んだ。

割れた薪を抱えて、火をくべたとき。

老人のひとりが、しわがれた声で言った。

「……ありがとうよ、お嬢さん」

ミリアの手が、止まった。

ありがとう。

それは、ずいぶん長いあいだ、誰からも、言われていない言葉だった。聖女と崇められても、妃と呼ばれても、一度も。

そして、気づいてしまった。

崇められていたあの頃の私は、誰のためにも、なにもしていなかった。


熱の引いたハンナは、起き上がると、いつものように井戸へ向かった。

ミリアは、その背を追って、思わず口にしていた。

「シスターは……どうして、怒らないの。私みたいな女を。全部、自分でめちゃくちゃにした女を」

ハンナは、桶を引き上げながら、振り返らずに笑った。

「あたしもね、昔、ぜんぶ人のせいにして生きてたのさ。亭主のせい、親のせい、運のせい。──そうやって、ぜんぶ失った」

「……」

「人を恨んでるあいだは、楽だよ。自分は、悪くないんだからね」

桶の水が、朝の光に、きらりと揺れた。

「でもね。人のせいにしてるうちは、人生は、いつまでも、自分のものにならないんだよ」

ミリアは、その場に、立ち尽くした。

ロザリンドお姉様のせい。教会のせい。アルフレッド様のせい。

──ずっと、誰かに、私の人生を、明け渡してきた。

王太子妃の椅子を望んだのも、本当は、誰かに認めてほしかっただけ。お姉様から奪えば、自分の価値が証明される気がした。だから、奪った。手を汚して、人を陥れて。

そうして手に入れた椅子で、私は、一度でも、自分の足で立っただろうか。

「……私のせい、だったんだわ」

声に出すと、それは、ひどく当たり前のことに思えた。なぜ、こんなに長いあいだ、気づけなかったんだろう。

涙は、出なかった。代わりに、ずっと胸に刺さっていた棘が、ことり、と抜けたような気がした。


雪が解けて、畑の土が、黒く湿りはじめた頃。

ミリアは、自分の手で耕した畝に、種を蒔いていた。土に汚れた爪も、節くれだった指も、もう、恥ずかしくはなかった。

ふと、手を止めて、南の空を見た。

あの子は──ライオネルは、今、どこかの宮殿で、すくすくと育っているのだろう。私のことなど、知らないまま。それでいい。今の私には、母を名乗る資格などない。

でも、と、ミリアは思った。

いつか。

何年かかってもいい。自分の足で立って、自分の手で稼いで、誰かに「ありがとう」と言われる人間になったら。そのとき、私は、胸を張って、あの子に会いに行こう。

聖女としてでも、妃としてでもなく。ただ、ミリアという、ひとりの人間として。

「あなたに、会いに行くわ」

誰もいない畑に、小さく言った。

その声は、もう、震えていなかった。


夕暮れ、井戸の水を汲んで戻ると、ハンナが、繕いものをしながら言った。

「精が出るねえ、ミリア」

名前を、呼ばれた。

ミリアは、桶を置いて、しばらく、その響きを噛みしめた。ずっと、誰にも呼ばれなかった、自分の名前を。

「……はい」

返事をして、ほんの少しだけ、口角が上がった。理由は、自分でもよく分かっていた。

その夜、寝台の硬さは、いつもと同じだった。窓の隙間から吹き込む風も。

それでも、膝を抱えるのは、もう、やめにした。

ミリアは、両手を、そっと開いてみた。

豆だらけの、土の匂いのする手のひら。誰のものでもない、自分の手だった。

──いつか、必ず。胸を張って、あの子に会いに行く。

それが、今のミリアの、たったひとつの夢だった。

その夢が実現することを、知っている人みたいに、ミリアは歩いた。

第58話 ミリアの夢

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『王妃という名の社畜2.0、お断りします』は、前世を思い出した悪役令嬢が、自分の人生を取り戻す物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。