第2話 002

氷の大公、現る〜社交辞令ゼロ秒、年俸は前世十年分の転職オファー

(退職は片付いた。問題は──次の就職先よね)

大広間の扉を抜けた瞬間、ロザリンドの頭の中で、それが回り出した。

婚約破棄の余韻に浸る暇は、一秒もない。前世の癖だった。

公爵家に戻れば、また別の縁談が降ってくる。同じてつは踏まない。

──どこか、私の名前で働ける場所はないかしら。

本気でそう考えながら、回廊を歩いていた。我ながらどうかしている。

「ロザリンド・エイベル嬢」

低い、抑えた声だった。

回廊の奥。柱の影から、長身の人影が一歩、踏み出してきた。

黒髪。氷を思わせる薄い青の瞳。装飾を最低限にした漆黒しっこくの正装。

──知っている顔だ。

知らないはずがない。社交界で、その顔を見たことのない令嬢はいない。

ロザリンドは扇を持つ手を、ほんの少しだけ強く握り直した。

「……ヴェルナント大公殿下」

「ああ」

「今宵のご招待客リストに、閣下のお名前はなかったかと記憶しておりますが」

頭の片隅で、招待者の帳簿がぱらりとめくれた。建国記念。同盟国。──いいえ、ヴェルナント大公国は中立。同盟関係ではない。

つまり彼は、招かれていない場所に、自分の意思で来ている。

「ご機嫌よう、閣下。今宵はどのようなご用向きで」

社交界の挨拶は反射で出た。けれど内心では、別の計算がもう走り始めている。

──あの「氷の大公」が?

月に十件と噂される縁談を、無表情で蹴り続けてきた男が、なぜ今夜、わたくしの目の前に。

単刀直入たんとうちょくにゅうに言う」

ルーカス・ヴェルナントは、社交辞令を一切省いた。

「うちで雇いたい」

「……は?」

ロザリンドの口から、令嬢らしくない声が漏れた。

「ヴェルナント大公国経済顧問。条件は君が決めていい」

廊下の照明の下、男はまっすぐにロザリンドだけを見ていた。

すぐ後ろで、側近らしき寡黙な剣士が、書類の束を静かに差し出している。

──いつから、用意してあったの。

ロザリンドは、扇の角度を少しだけ整えた。動揺を悟られない程度に。

「閣下。失礼ながら、私は今しがた、王太子殿下より婚約破棄を申し渡された身でございますが」

「知っている」

「悪役令嬢として、社交界で評判の悪い女ですが」

「知っている」

「経済の話以外、できることがほとんどない女ですが」

「それでいい」

三回連続、即答だった。

ロザリンドは、わずかに口の端を動かした。

前世の社畜の脳が、即座に判定した。

──これは、だ。

それも、こちらの足元を見ない、条件をこちらに委ねる類いの。

田中律子が、一度も受けたことのなかった種類の話だった。

「契約書、拝見してもよろしくて?」

「どうぞ」

側近が差し出した羊皮紙を、回廊の燭台しょくだいの下で広げる。

前世、田中律子が十年磨いた目だ。契約書の地雷を見つけるのは、三十秒で足りる。

職務内容。経済政策の立案権。執務室の独立。決裁ライン。報酬条項。違約金条項。

──片務的へんむてきな縛りはない。退路は塞がれていない。一方的な帰属条項も、ない。

ロザリンドの視線が、ある一行で止まった。

提示された年俸の数字。

(……前世の私の、十年分)

為替換算かわせかんさん物価補正ぶっかほせいをかけ直してみても、結論は同じだった。

田中律子が十年かけて稼げなかった金額が、一年分の報酬として、いま目の前にある。

──『お前みたいな女は、どこに行っても通用しない』。

あの夜の上司の声が、ふっと耳の奥で蘇って、そして、音もなく崩れて消えた。

ロザリンドは、ふっと短く笑った。

ほんとうに、ほんの一瞬だけ。

「閣下。ひとつだけ、加えてもよろしいですか」

「言ってみろ」

「契約書には、私の名前で署名する欄を。『公爵令嬢』でも『元婚約者』でもなく、

ルーカスの薄青の瞳が、わずかに細められた。

「……認める」

側近が、無言で羽根ペンを差し出してくる。

ロザリンドは、回廊の壁際にあった侍従用の小机にその羊皮紙を広げ、迷いのない筆致で、自分の名前を書いた。

ロザリンド・エイベル。

久しぶりに、誰のための姓でもない、自分自身の名前として、書いた気がした。

「──ありがたく、お受けいたしますわ」

今夜、二回目の「ありがたく」だった。

向こうの「ありがたく」は破棄状を受け取る皮肉で、こちらの「ありがたく」は採用通知を受け取る本心だった。

「契約成立だ」

ルーカスは羊皮紙を受け取った。指先が、署名の一字一字をなぞるように、ほんの一瞬だけ止まった。

ロザリンド・エイベル、と。

ロザリンドはそれに気づかず、扇を畳んでいた。

「明日の朝、迎えの馬車を寄越す」

「明日の朝、ですか」

「君が婚約破棄された会場に一晩でも残す気はない」

淡々と告げられたその一言を、ロザリンドは「当事者を現場に置き去りにしない段取り、合理的だわ」と受け取った。

ちょうどそのとき。

大広間のほうから、ようやく事態を把握し始めた貴族たちのざわめきが、波のようにあふれてきた。

「あの、氷の大公が……」

「あの女に、声をかけたぞ」

「待って、彼女、今しがた婚約破棄を──」

「廊下で何か、書類に署名を……」

ロザリンドはちらりと振り返って、扇の陰で、誰にも見えない角度で、もう一度だけ、こっそりと指を握りしめた。

二度目のガッツポーズだった。

退職と転職が、同じ晩のうちに片付いてしまった。

こんなに効率のいい一日は、田中律子の二十八年にも、ロザリンドの十八年にも、一度もなかった。

「では閣下、明朝、お迎えをお待ちしておりますわ」

「ああ」

ロザリンドはドレスの裾を翻し、今度こそ、王宮の正門へ向かって歩き出した。

背後で、ルーカスが側近に何かを短く指示している声が、わずかに聞こえた。

「エイベル公爵邸の周りに、今夜から人を配せ」

「は」

「アルバート側が、彼女を引き戻そうとする可能性がある」

「了解いたしました」

ロザリンドの耳には、その声は届いていなかった。

届いていたとしても、「警備手配、合理的ね」で済ませただろう。自分のためだとは、夢にも思わずに。

回廊の角を曲がる銀髪の後ろ姿を、ルーカスは無言で見送った。

しばらく動かなかった。

それから、ようやく、誰にも届かない高さで呟いた。

「明朝、絶対に遅れるな」

側近は、軽く目を見開いた。

七年仕えてきて、主の口から「絶対に」という単語を聞いたのは、初めてだった。

第2話 氷の大公、現る〜社交辞令ゼロ秒、年俸は前世十年分の転職オファー

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『王妃という名の社畜2.0、お断りします』は、前世を思い出した悪役令嬢が、自分の人生を取り戻す物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。