第30話

執務室に戻る後ろ姿

朝の執務室。

アンナが報告書(ほうこくしょ)を読み上げる声から、いつもの彩(いろど)りが抜けていた。

「ノースランド公国使節、本日午前出立(しゅったつ)」

ペンを止めずに、ロザリンドはひとつ頷く。

「南方都市同盟(なんぽうとしどうめい)代表、明朝出立」

もうひとつ頷く。

「東方(とうほう)リアトス王国王弟(おうてい)──体調不良のため、即日帰国(きこく)を希望」

「あら、お気の毒に」

「北方(ほっぽう)ヴァルダー王国は、滞在延期(たいざいえんき)の打診を、昨夜のうちに、自ら撤回されました」

カリ、と羽根ペンが一拍止まる。

「ロザリンド様、これで──今月の縁談打診(えんだんだしん)、全件、終了しました」

アンナは一拍置いて、付け加えた。

「最後はホーゲル伯(はく)でした。けさ、自ら撤退(てったい)の口上を、執務室の前で述べていかれましたわ」

ペンを動かす指が、ほんのわずか、止まる。

──ホーゲル伯。三月前の社交場で、葡萄酒の杯を傾けながら、よく通る声で笑っていた男。

『公爵令嬢といっても、所詮は婚約破棄された出戻(でもど)り。情けで娶(めと)ってやってもいい』

その場に居合わせた使用人の報告書は、ロザリンドの執務机の引き出しに、今も静かに眠(ねむ)っている。

その男が、今朝、額に汗を浮かべて、退路の口上を読み上げていったらしい。

「あら」

ロザリンドはようやく顔を上げた。

「ずいぶん日程が空きそうね」

「……はい」

「閣下のお手腕(しゅわん)で、随分助かりますわ。次の貨幣改革の試算、前倒(まえだお)しできます」

アンナは何か言いかけて、結局、深く一礼するだけにとどめた。

(クラルク王国のお戻りを皮切(かわき)りに、ドミノですわね)

ロザリンドは試算表に視線を戻しながら、軽く感心していた。

クラルク王国第二王子の急遽(きゅうきょ)帰国──あれが起点(きてん)だった。それから三日。各国の使節が次々と「本国の事情で」「健康上の理由で」「予算の都合で」と、理由をつけて去っていく。

理由は、それぞれ違う。

──ただし、すべてに共通点があった。

ルーカスが事前に、各国の「経済的に無視できない案件」を、一枚ずつ机に並べて見せていたこと。新航路(しんこうろ)の優位性(ゆういせい)、関税の見直し時期、自国港湾(こうわん)の遅延予測(ちえんよそく)。資料はどれも、徹底的に合理的だった。

帰らざるを得ない理由を、相手に自分(じぶん)で発見(はっけん)させるやり方。

(閣下らしい)

ロザリンドはペンを走らせながら、心の底から感謝していた。

(業務上の無駄な交際時間(こうさいじかん)を、これだけ綺麗に削減(さくげん)なさるなんて。事務官(じむかん)の総労働時間(そうろうどうじかん)に換算(かんさん)したら、月に三百時間は浮きましたわね)

労務管理として、極めて合理的。

それ以外の解釈は、ロザリンドの中にはない。

午後、別の使者が大公国に到着した。

アンナが青ざめた顔で執務室に飛び込んできた。

「ロザリンド様、閣下。──祖国アルバート王国の、正式な特使(とくし)でございます」

ルーカスが書類から目を上げた。

「親書(しんしょ)は」

「こちらに」

封蝋には、見慣れた紋章。両国の経済関係改善(けいざいかんけいかいぜん)について、至急(しきゅう)の協議(きょうぎ)を求める──と、表書きには記されている。

アンナの手が震えていた。

「閣下、これは──」

「予定通りだな」

ルーカスは親書を一瞥(いちべつ)して、机の隅に置いた。それから、ロザリンドの方を、見もせずに言った。

「ロザリンド殿。来週、面会の場を設ける。同席(どうせき)を頼む」

「承知いたしました」

ロザリンドは即答してから、ふっと、口角を上げた。

(沈み始めた船から、ようやく救命艇(きゅうめいてい)の手配が来ましたわね)

軽快に、しかし冷ややかに、心の中で呟く。

前世の私が、職を離れて半年後、元の勤め先から「ちょっとだけ戻って手伝ってくれない?」と連絡を受けた、あの感覚。

引き継ぎ資料は、全部置いてきた。

後任(こうにん)が読めないなら、それは雇(やと)った側の問題だ。

(お断り申し上げます、と返信したいわ)

ロザリンドは胸の中で呟いて、すぐに首を振った。

「いえ、それは来週の閣下のご判断ですわね」

アンナが、ぽかんと主の顔を見ていた。

夕暮れの廊下。

ロザリンドは決裁済(けっさいず)みの書類をアンナに渡しながら、明日の朝の予定を読み上げていた。

「八時から関税推移(かんぜいすいい)の検証(けんしょう)、九時から事務局会議(じむきょくかいぎ)、十時から──」

「ロザリンド様、もう少しお休みになっては」

「あら、こんなに業務に集中できる環境、前世では──いえ、これまでの私では絶対に手に入りませんでしたのよ」

廊下の窓から、長い影が差し込んでいた。

その影の中を、執務室へ戻っていく長身(ちょうしん)の後ろ姿があった。

誰にも振り返らない。

社交場に詰めかけた他国の令嬢たちの誰一人にも、目もくれなかった男。廊下ですれ違った数名の女官(にょかん)の挨拶も、わずかな目礼(もくれい)だけで切り捨ててきた男。

扉が閉まる直前、ほんの一瞬。

その視線が、書類を抱えるロザリンドの後ろ姿を、捉(とら)えた。

──3年前から、ずっとそうだった。

視線は、いつも一人だけを追っている。

抽斗(ひきだし)の奥に押し込まれた紙束。麻紐(あさひも)。一月十四日の壁際の覚書。あの夜から、ずっと。

彼女は、気づかない。

気づかないまま、彼女自身の仕事に向かっていく。

それでいい、と大公は思った。

今は、まだ。

扉が、静かに閉まった。

執務室に戻ったロザリンドは、机の上に新しい紙を広げた。

来週の祖国特使への対応資料。

ペン先が、紙に触れる。

「両国間覚書(りょうこくかんおぼえがき)の第三条、干渉条項(かんしょうじょうこう)……補填額算定(さんてい)……祖国の財政では、絶対に支払えない額」

呟きながら書き出した数字を眺めて、ロザリンドはふと、笑みのようなものをこぼした。

(さて、ちゃんと、お断りの準備をしておきましょう)

机の隅で、紅茶が、ゆっくり冷めていく。

廊下の向こうの執務室の扉は、もう、閉まっている。

明日の朝、また、焼き菓子の小皿が、いつもの場所に置かれているだろう。

ロザリンドは、気づかないまま、関税表の次の頁(ページ)をめくった。

祖国の使者が大公国の門をくぐるまで、あと、七日。

彼女が、自分の意志で祖国に「お断り申し上げます」と告げる日まで、あと、七日。

第30話 執務室に戻る後ろ姿

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『王妃という名の社畜2.0、お断りします』は、前世を思い出した悪役令嬢が、自分の人生を取り戻す物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。