第41話 041

お姉様、助けて──妹だった覚えはございませんけれど

王太子をひかえの間に下げてから、まだ半刻と経っていなかった。

「ロザリンド様」

執務室の扉を、近衛このえのひとりが叩いた。声が、おかしいくらい静かだった。

「失礼いたします。──門前に、もう一台、馬車が」

ロザリンドはペンを置いた。

「どちらのご家紋ですの」

「それが……家紋なし、で」

近衛が一枚の紙片を差し出す。震える指先。文字は走り書きだった。

聖女候補せいじょこうほミリア・ロウ。お姉様にお目通りを願います。

──お姉様、ね。

──妹だった覚えは、ございませんけれど。

ロザリンドは紙片を二度読んで、卓の隅に伏せた。

「面会は、刻を改めて。執務時間内に、十五分。城の応接室を使います。侍女一人のみ随伴ずいはん可。それ以外は、門の中に入れません」

「畏まりました」

近衛が退室した後、机の向こうでルーカス閣下が手にしていた書類を、一度、卓に伏せた。

「君がそう判断したのなら、それでいい」

「はい。ただ、閣下」

「言ってくれ」

「この三十分、書記を一人、必ず同席させてくださいませ」

「……記録を残すのか」

「ええ。あの方の言葉は、後でどう書き換えられるかわかりませんもの」

閣下の視線が、伏せた書類からロザリンドの横顔へ移り、そこで一拍、止まった。何か言いかけて、結局、言わない。指先が、卓の上の書類をわずかに自分の側へ寄せた。ロザリンドは気にしない。

──め事は、当事者間の記録を残すところから始まりますの。前世で学んだ、最初の鉄則ですわ。


刻を移して、応接室。

通されてきたミリアを見て、ロザリンドは手元の予定表の「面会、三十分」を、心の中でもう一度なぞった。

喪服もふくのような旅装。化粧は崩れ、髪の根元が色を変えている。聖女候補と呼ばれた頃の、あの計算された純白じゅんぱくは、もうどこにもない。

「お姉様」

第一声が、それだった。昨夜の走り書きと、同じ呼び方。

──やはり、その呼び方でいらっしゃるのね。

ロザリンドはカップを傾ける。紅茶の温度をひとくち確かめてから、口を開いた。

「ミリア様。三十分しかございませんの。ご用件をどうぞ」

「お姉様……お姉様、助けて」

「ご用件を」

「あなたなら、こうなるって、知ってたんでしょう?」

涙が、規定の量、規定のタイミングで落ちた。技術は健在だ。

「なぜ、なぜ教えてくれなかったの」

書記のペンが、紙の上で軽く震えるのが見えた。ロザリンドは彼に向かって、ごく短く頷く。──書き取って構いません、という合図。

「お姉様は経済の天才で、未来も見えていたって、皆そう言ってます」

「……」

「私、本当は……お姉様のことを、ずっと尊敬そんけいしていて……」

後出しの尊敬。成功した者の足元に、後から敷かれる赤い絨毯。安いものだ。

ロザリンドはカップを置いた。

「ミリア様」

「は、はい」

「私、未来は見ておりませんわ」

ミリアが顔を上げる。涙の膜越しの緑の瞳が、ぐらりと揺れた。

「見ていたのは、契約書の条項ですの」

「け、契約書、って……」

「婚約破棄の場で、私はあの椅子から降りました。あなたがその後に座った椅子の座り心地まで、存じ上げませんの」

ロザリンドはゆっくり、ひと言ずつ刻んだ。

「誰に強いられたわけでもなく、あなたが進んでお選びになった椅子ですわ」

ミリアの口が、声にならない形で開いた。

「私、何も知らなかった……騙された……」

崩れるように卓に伏す。喪服の肩が小さく上下する。

書記のペンが「騙された」の四文字を、几帳面きちょうめんに書き取っているのが見えた。

ロザリンドは紅茶の二口目を口に運んだ。──この紅茶、悪くないですわね、と頭の端で思う。

卓に伏すミリアを見ても、ロザリンドの中で動くものは、何もなかった。

報告書は、ここへ来る前にひと通り読まされている。彼女が祖国でどう転がり落ちたか。それは「片づけるべき案件の経緯」として頭に入っているだけで、それ以上の意味は、持たなかった。

「……お姉様」

伏せた顔のまま、ミリアが呟いた。

「お姉様の代わりに、私が産んだのに」

ロザリンドはカップを、卓の上に戻した。

音が、思ったより硬く響いた。

「代わりに?」

初めて、ロザリンドの声から温度が抜けた。

ミリアが顔を上げる。涙の量が、さっきの倍になっていた。──技術ではなく、本物のほうの涙だ。

ロザリンドは、その顔を真正面から見据えた。

壁際に控えていた侍女が、思わず、というふうに小さく息を呑んだ。


応接室の時計が、控えめに時を刻む音だけが──残った、はずだった。

「……なんで」

ミリアの唇が、動いた。

「なんで、そんな言い方が、できるのぉーーーー」

本物の涙を頬に残したまま、その奥の目だけが、泣くのをやめていた。

「あなたさえ……あなたさえ、あの時、土下座でもなんなりして、詫びの一つでも入れてでも、王妃になっていれば……!」

立ち上がった拍子に、椅子が背後で倒れた。

「私は、こんな目に遭わずに済んだのに! 全部、全部あなたのせいよ……ッ!」

書記のペンが、一瞬、止まった。

──あら。

ロザリンドは座ったまま、瞬きをひとつ。

──仕向けたのは、あなたでしょうに。

──そして今も、それを忘れていらっしゃる。

視線だけで書記を促す。ペンが、再び走り出した。一言一句、几帳面に。

「ミリア様」

ロザリンドは、倒れた椅子には目もくれなかった。

「申し遅れておりましたが、御礼申し上げますわ」

「……え……?」

「感謝は、しておりますのよ」

ミリアの目が、見開かれた。

「あなたが私から、あの椅子を奪ってくださった。おかげさまで私は──自由ですもの」

「な……」

「ですから、これは私怨でも、報復でもございませんの」

ロザリンドは、卓の上の予定表の端を指先でまっすぐ揃えた。

「私は大公国の経済顧問。すべて国益に基づいて判断いたしますわ。上に立つ者が私情で天秤を傾ければ、下の者に示しがつきません。あなたをお助けしないのは私情ではなく──お助けする理由が、この国のどこにも見当たらないからですの」

──まあ、私情で決めてよろしいのなら、なおのこと、お助けする気は毛頭ございませんけれど。

「──ただ、ひとつだけ」

ロザリンドは、卓の端から指を離した。

「いつか。その椅子を、誰かのせいになさるのをおやめになって。ご自分の足で立ったことも、人を蹴落としたことも、ぜんぶご自分の手でなさったのだと、心から悔いる日が来たなら」

ほんの一拍、置いて。

「そのときは──少しは、考えて差し上げてもよろしくてよ」

ミリアの顔に、すがるような光が、よぎる。

「もっとも」

ロザリンドは、その光をあっさりと拭い去った。

「今のあなたを拝見するかぎり、その日が来るとは、とうてい思えませんけれど」

ミリアの膝から、力が抜けた。

卓に両手をつき、崩れるように、伏せる。

「面会、残り三分でございます」

書記が、声を落として告げた。

ロザリンドは立ち上がった。

「ミリア様。お引き取りくださいませ。──門の外までは、当国の馬車をお出しいたします。それは、私の慈悲じひではなく、ヴェルナント大公国の体面たいめんのためですので、お間違いなきよう」

背を向けた、その瞬間だった。

「待って」

卓に伏せていたミリアが、はじかれたように身を起こした。

「待ちなさいよ、お姉様……ッ」

声が、裏返っていた。

「助けてって言ってるでしょう!? 聞いてた!? 私を見捨てるの!? あなたのせいで、こうなったのに──!」

卓を回り込み、ロザリンドの背へ手が伸びる。

その腕を、横から別の手が掴んで止めた。

壁際に控えていた、ミリアの侍女。祖国から付き従ってきた、ただ一人の随伴ずいはんだった。

「ミリア様、なりません……っ。お願いですから、おやめくださいませ……!」

「離して! 離しなさいよ! お姉様……お姉様ァ!」

侍女が半ば抱きかかえるようにして、ミリアを扉の方へ引き戻していく。喪服の裾が乱れ、床を擦った。

書記がすばやく立ち、扉を開けて道を空ける。

ロザリンドは、振り返らなかった。

「お姉様ァ……ッ」

その叫びが、廊下の遠くへ運ばれていく。──扉が、閉まった。

応接室に、ロザリンド一人が、残された。

──お断り申し上げるいとまも、くださいませんでしたわね。

言いかけて呑み込んだ続きを、ロザリンドはそっと口の奥へ戻した。

──いえ。

そういえば──ひかえの間に、もうお一方ひとかた。先に通して、下げたまま、お預けしている御方がいらしたわ。

──ちょうど、よろしいですわね。

おひとりずつ応対おうたいしていては、刻がいくらあっても足りません。同件どうけんは、まとめて片付ける。──前世から、変わらない流儀ですわ。

廊下に出ると、窓の外──中庭に、二台の馬車が見えた。

先に通された王太子の、大仰な紋章付き。その後ろに、ミリアを乗せてきた簡素な貸し馬車。並ぶには、ずいぶんと不釣り合いな二台だった。

──律子。この後、まとめて片付けるわよ。

そでの中で、ペンを握り直した。

第41話 お姉様、助けて──妹だった覚えはございませんけれど

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『王妃という名の社畜2.0、お断りします』は、前世を思い出した悪役令嬢が、自分の人生を取り戻す物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。