第51話 051

六年前の机の上で

「提案の前に──見せたいものがある」

閣議室かくぎしつへ向かう廊下の途中、ルーカスはそう言って、ロザリンドの足を止めた。

ロザリンドは議題ぎだいリストを胸に抱いたまま、片眉を上げた。

「項目13は、議場でお出しする予定ですが」

「議場の前に、片付けておきたい一件だ。私の側の話だ」

──私の側の、話。

ロザリンドは、彼が「私的」という単語をどれほど警戒する男かを知っている。その主人が、自分から「私の側」と切り出したのは、これが初めてだった。

「……承知いたしました」

二人は廊下を引き返し、大公の私的な執務室に入った。


ルーカスは執務机しつむづくえの最下段の引き出しに鍵を差し込み、ゆっくりと引いた。

引き出しの底から取り出されたのは、二つのたば

一つは、ヴェルナント大公国紋章入りの公文書こうぶんしょ。題は──〈両国間覚書 草案〉。

もう一つは、無題の帳面。だが、開いた瞬間、ロザリンドの呼吸がほんの一瞬、止まった。

アルバート王国の歳入さいにゅう歳出さいしゅつ備蓄びちく、国債残高、関税収入、教会への上納、王室費の内訳まで──六年前の日付を起点に、直近の月まで途切れることなく書き継がれている。

筆跡は一つではない。複数の手で、定期的に更新された痕跡があった。

「……これは」

ロザリンドはそれ以上、声にしなかった。

帳面の最終ページ、そこには赤い線で囲まれた一行があった。

想定違約金額 = 国庫残高 ー 最低運転資金 ー 一歩

ロザリンドは数字を黙読した。

第三章の覚書、別紙算定書さんていしょに書かれていた違約金。あの夜、宰相エルヴィン・ガレットが机の上で青ざめた、あの額面と──寸分すんぶん、違わない。

──……六年前、ですって。

帳面の表紙の日付を、もう一度、確認する。

私が十五歳、社交界デビュー前。父の執務室で、初めて関税表の誤りを指摘した、あの年。

「──いつから、これを」

「君が初めて公の場に出た日の、翌週からだ」

ルーカスの声は、いつもと同じ温度だった。

「壁際で経済書を読んでいた令嬢に、二十秒だけ話しかけた。返ってきた一文で、私は仕事に戻れなくなった」

「……二十秒で、ここまで」

「二十秒で十分だった」

ルーカスは、覚書草案の方を、ロザリンドの前に静かに置いた。

「あの日のうちに、外務府に指示を出した。ヴェルナント大公国は、いずれアルバート王国から一人の公爵令嬢を引き受けることになる、と。──その日のために、祖国の財政を把握はあくし、向こうから手出てだしできない仕掛けを、先に並べておけ、と」

ロザリンドは草案の最初の一頁をめくった。

第三条。──干渉かんしょうにより雇用契約に毀損きそんが生じた場合、補填はすべてアルバート王国の負担とする。

第四条。──対価として、貴国王宮からの公式照会権こうしきしょうかいけんを提供する。ただし回答可否は本人に一任する。

ロザリンドは、これをすでに読んでいる。婚約破棄の翌日、エイベル邸の自室で、エイベル公爵から控えを受け取って読んだ。

そのときは、宰相が交渉で勝ち取った妥結の産物だと思っていた。

──違った。

これは六年前から、机の上で待っていた。私が婚約破棄される日を、待っていた。

──……手に入れる前から、手放さない仕掛けを並べていた、ですって。

第三章の幕間で、宰相が声に出さず呟いた一行を、ロザリンドはいま、独立に、自分の頭の中で再構成した。

「閣下」

「うん」

「私が婚約破棄されない可能性は、当時、何パーセントと見積もっておられました?」

ルーカスは、ほんの少しだけ間を置いてから、答えた。

「四割」

「……その、四割の場合は」

「正面から、王太子に賠償と交換で譲渡を申し入れる予定だった。そのための譲渡契約書を、別に一通用意してある」

ロザリンドは、帳面と覚書草案の二つを、机の上で並べてみた。

六年分の人員、六年分の調査費、六年分の外務府の稼働。これを業務時間として算定すると──

──……投資回収の概念で測ると、相当な赤字ですわね、閣下。

「……私一人を確保するのに、随分なご投資ですこと」

声に出した。あえて、業務口調で。

ルーカスは、ふっと低く息を吐いた。

「足りない」

「は」

「これだけ注いでも、まだ君に釣り合わない。──足りるまで、何度でも注ぐ」

ロザリンドは、帳面の表紙にうすく積もった六年分の埃を、指の腹でそっと払った。

胸の中で、何かが温度を持ち始めている。怒りでもない。おびえでもない。

前世の田中律子が、誰にも見つけてもらえなかった二十八年間、ついに一度も味わえなかった種類の温度だった。

──婚約破棄までの三年。

三年、机の上に、私の人生を算定し続けた人がいた。

私が婚約破棄をガッツポーズで迎える、その日のために。

ロザリンドは帳面と覚書草案を、丁寧にそろえて、引き出しに戻した。最下段、鍵付きの、その奥。

「閣下」

「うん」

「廊下に戻りましょう。閣議に、遅れます」

「ああ」

ロザリンドは扉に向かって歩き出し──三歩進んだところで、一度だけ、振り返った。

「項目13、ですけれど」

「うん」

「六年分の業務時間に、釣り合うかは存じませんが。──私からも、対価を提示するつもりですので。覚悟かくごなさってくださいませ」

ルーカスの口元が、廊下の薄明かりの中で、わずかに、ほどけた。

「楽しみにしている」


二人が閣議室の扉を押し開けたとき、書記官は議題リストの末尾の一行を、まだ二度見しているところだった。

項目13・雇用契約の見直しについて

書記官は知らない。

その項目13を、六年前から、静かに待ち続けていた人がいたことを。

第51話 六年前の机の上で

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『王妃という名の社畜2.0、お断りします』は、前世を思い出した悪役令嬢が、自分の人生を取り戻す物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。