第17話 017

収支報告書という名の鈍器

「まあ、エイベル様。祖国ではご苦労されたとか」

扇の陰から覗いた最初の一手は、家柄マウントだった。

ベアトリス・ハインリヒ伯爵令嬢はくしゃくれいじょう。栗色の縦巻きを揺らし、深紅のドレスをひるがえしてロザリンドの正面に立つ。両脇には、合わせ鏡のように並んだ二人の令嬢。

──布陣三人。お局様の派閥に挨拶し忘れた歓迎会と、ほぼ同じ図ね。

ロザリンドは扇を閉じて、微笑にもならない程度の表情を作った。

「ご挨拶痛み入ります、ハインリヒ伯爵令嬢」

「祖国を追われた方が、よくぞ大公国たいこうこくの社交界に。さぞお寂しいことでしょう」

会場の温度が、半度下がった。

周囲の貴婦人たちが、扇の陰でこちらをうかがっている。

ロザリンドはベアトリスの瞳の奥を一秒だけ見て、すっと視線をらした。

逸らした先は、ドレスでも宝石でも、左手の薬指でもなかった。

──資料は、読んできた。


「ハインリヒ伯爵領の、先月の麦の市場価格」

ロザリンドの声は、世間話の延長のような穏やかさだった。

「対前年比、二十三%下落でいらっしゃいましたわね」

ベアトリスの口元から、笑みがほんの少しだけ消えた。

「南のレマン経由で安価な麦が流入しております。このままですと、領内の麦作農家の収支が今期で割れますわ。──三戸に一戸の試算ですけれど」

ベアトリスの扇が、止まる。

「もっとも、ハインリヒ領の麦は粒が立っておいでですから、そのまま売るより蒸留に回された方が利が出ますわ。東方のヴァルダ公国では、御領の麦酒に三年来の引き合いがございますの。関税優遇のルートも、まだ枠が空いておりますわ。──ご参考までに」

最後の六文字を、ロザリンドは本当に「ご参考までに」というニュアンスでだけ置いた。

罵らない。脅さない。

事実を、ただ、置く。逃げ道まで、ついでに置く。

ベアトリスの背後で、令嬢のひとりが息を呑んだ。──ハインリヒ家の領民の暮らしを、当主の娘より先にこの女が把握しているという事実に対して。


二番手は、すぐに繰り出された。

クラリッサ・モルガン子爵令嬢ししゃくれいじょう。淡い水色のドレス。控えめな笑み。

「閣下のお優しさに甘えるのも、ほどほどになさいませね、エイベル様」

恋愛マウント型。──小姑、と前世が翻訳した。

ロザリンドはすっと半歩、相手のほうへ近づいた。

「お気遣いに感謝いたしますわ。けれど閣下のご厚意ではなく、契約ですの」

胸元から薄い手帖を取り出し、一度開いて、すぐ閉じる。

「ところで、クラリッサ様」

「は、はい」

「モルガン家の織物商会、先期の帳簿の二重計上の件、内部監査はお済みでして?」

「──え」

「四月の出荷台帳と、五月の入金記録の照合がずれておりましたわ。祖国でお見かけした商会記録ですから、こちらの所管ではないのですけれど。お家のために、早めに整えられた方がよろしいかと。──老婆心ろうばしんですが」

クラリッサの顔から、血の気が引いた。

ロザリンドはそれ以上押さない。脅迫ではない。早めに整えた方がよい、と本当に老婆心で言っただけ。

ただ、相手にとっては鉄槌だっただろう。


三番手は、性懲りもなく、繰り出された。

オフィーリア・ベルニーニ侯爵令嬢こうしゃくれいじょう。金髪、緑の瞳、扇のあしらいまで隙がない。

「殿方というのは、ねぇ。若くて、素直な娘がお好きですのよ。あまり、こう──理屈っぽくては」

ロザリンドは二秒だけ間を置いて、真顔で頭を下げた。

「ありがとうございます。参考にいたしますわ」

会場が、凍った。

正確には、ロザリンドの周囲半径三メートルが、無音になった。

オフィーリアの口が、開いたまま止まる。

ロザリンドは顔を上げ、いつもの抑揚のない声で続けた。

「率直なご助言、貴重ですわね。前職でも、上司にこう申し上げられました。『お前は理屈っぽい』と。けれど、理屈で詰めなかった案件で組織が傾いた例は、数えきれませんの。理屈で詰めて傾いた組織を、私は。ご助言は心の引き出しに大切に仕舞いますわ。──実装はいたしませんけれど」

実装はいたしませんけれど。

オフィーリアの扇の手が、空中で止まっていた。


少し離れた壁際で、側近のディーター卿が片手で口元を覆い、咳払いをひとつ落とした。

ルーカス本人は柱に肩を預け、シャンパングラスを持ったまま、まばたきもしていない。

ただ、グラスを持つ指が、ほんの一拍だけ強く曲がった。

──笑いを、堪えている。

会場でその変化に気づいた者は、たぶんディーター卿だけだった。


三人衆は、礼の体裁だけ整えて、それぞれの方向にすうっと引いていった。

ロザリンドは扇を開き直し、ふっと息を吐く。

(──ヘイト管理、終了。所要時間、概算四分)

頭の中の社畜が、無慈悲に計上した。

数字で攻めれば、数字で黙る。前世のクレーマー対応とほぼ同じ構造だ。ファンタジー世界でも、人間はあまり変わらない。

ロザリンドはグラスに口をつけ、会場の隅に視線を流した。

ハインリヒ家のベアトリスが、母親らしき年配の婦人の前で立ち尽くしている。母親の唇が動く。「麦の話を、なぜあなたが把握していなかったの」──と、唇の動きで読めた。

──ああ。本日のお説教は、私ではなく、ご実家から。

ロザリンドはそっと視線を戻した。

直接、手は出していない。ただ、事実を一行ずつ置いただけ。

その事実が、相手の家の中で、いま、それぞれ独り歩きを始めている。


「閣下」

ディーター卿が、ルーカスの斜め後ろで、低く言った。

「ハインリヒ家、モルガン家、ベルニーニ家、本日の婚姻関連の上申書、いずれもこちらに上がってきておりますが」

ルーカスは、シャンパンを呑み下した。

「保留にしておけ」

「は」

「期限は──」

少し考えてから、ルーカスは短く付け足した。

当面

「承知いたしました」

ディーター卿は深く一礼し、その場を離れた。

シャンデリアの光の下で、ロザリンドが別の事務官に何か小声で確認している。たぶん次の議題の段取りだ。

ルーカスの視線が、その背中の輪郭を半秒だけなぞった。

それから、シャンパングラスを置いて、彼は自分の足でその背中のほうへ歩き出した。

ロザリンドは、まだ振り返らない。

第17話 収支報告書という名の鈍器

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『王妃という名の社畜2.0、お断りします』は、前世を思い出した悪役令嬢が、自分の人生を取り戻す物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。