第49話 049

見つけてもらえた

──この日、ロザリンド・エイベルは、生まれて初めて、焼き菓子を握りつぶすことになる。

「……ロージー」

二人きりのときだけでいい、と彼は言った。

その声の余韻が、まだ執務室の空気に薄く残っている。

暖炉の薪がひとつ、低く爆ぜた。

ロザリンドは、窓辺に立ったままのルーカスの背中を見ていた。書類は一枚も机に出ていない。彼が業務報告としょうしてこの部屋に呼んだ理由が、業務でないことは、もう、わかってしまっていた。

わかっていて、わたしは、どうして、ここに立っているのだろう。

いつもなら、ここで皮肉のひとつでも口にしている。

「閣下、業務でしょうか、それとも?」

そう問い返せば、関係はもとの軌道きどうに戻る。書類が机に並び、数字の話が始まり、わたしは経済顧問に戻る。彼は氷の大公たいこうに戻る。

戻れる、はずだった。

けれど、口が動かなかった。

ルーカスがゆっくりと振り返った。

窓を背にして立った彼の表情は、いつもの角度のまま、けれど、いつもの温度ではなかった。氷、と呼ばれてきた瞳が、わずかに、揺れていた。

「ロザリンド」

今度は、いつもの呼び方に戻っていた。それが彼の、最後の踏みとどまりだとわかった。

数歩、距離を詰めて、彼は言った。

一拍。

「政治的にではない。能力のためでもない。──君が欲しい。それだけだ」

ロザリンドは、何も言えなかった。

いつも頭の中で半秒で組み立てている返答の文章が、一文字も浮かんでこなかった。社交辞令しゃこうじれいも、契約用語けいやくようごも、皮肉も、ブラックジョークも。前世から積み上げてきた言葉の備蓄びちくが、ひとつ残らず、空欄くうらんになっていた。

ルーカスは、彼女が答えないことを、責めなかった。むしろ、答えなくていいというように、続けた。

「生まれてきてから、ずっと──君だけを、探してきた」

声が、低かった。

「他の女性に興味を持ったことは一度もない。なくしたんじゃない。──最初から、ない」

窓の外の薄明かりが、彼の横顔よこがおを青く縁取っていた。

そして、彼は最後の一句を、ひどく丁寧に置いた。一度きりしか言わない人間の、置き方だった。

「他の誰も、君を見ていなかった」

息を、整える間。

「それが、信じられなかった」

ロザリンドの中で、何かが、音もなく崩れた。

他の誰も、君を見ていなかった。

その言葉は、あのパーティ会場の壁際にいた令嬢に向けられたものだった。経済書を一冊抱えて、誰の視界しかいにも入らない場所で、ページをめくっていた令嬢に。

けれど、ロザリンドの内側では、その言葉は、もっと、ずっと遠くまで届いていた。

数字を扱う仕事だった。誰よりも早く来て、誰よりも遅く帰った。名前を覚えてくれない上司の下で、合わない数字を朝まで合わせ続けて、机に向かったまま倒れて、そのまま帰ってこなかった女。

──いつか、誰かに、見つけてもらえるかも。

最期さいごに意識を閉じたのは、その一行だった。

そのあの女が、今、ようやく、見つけられた。

「愛されたかった」と最期に思った気持ちが、ここで、報われる。

遅すぎないわ。

ちゃんと、間に合った。

ロザリンドは目をせていた。何も言えなかった。何かを言えば、声が、声でない形で出てしまう気がした。

ルーカスは答えを求めなかった。

沈黙ちんもくの方が、雄弁ゆうべんだと、知っている男だった。

……どれくらいの時間がそうしていたのか、わからない。

暖炉の音だけが、ふたりの間にあった。

やがてロザリンドは、ようやく、動いた。

机の上に、いつもの焼き菓子が置かれていた。誰がいつ置いたかも知らない、二人きりの朝の儀式ぎしき片割かたわれ。緊張すれば手が伸びる、疲労ひろうすれば口に運ぶ、彼女の感情を、いつも代わりに飲み込んでくれていた、小さなげ場所。

手を、伸ばした。

いつもの動作。いつもの逃避とうひ

けれど、口には、運べなかった。

指先ゆびさきに、力が、入った。

焼き菓子が、彼女の手の中で、小さな音を立てて、崩れた。

くだけた粉が、机の上に落ちた。

その音を聞いて、ルーカスが歩み寄った。何も言わずに、彼女の手を、両手で、そっと包んだ。崩れた菓子のくずごと、握り直すように。

「……返事は、急がない」

ルーカスの声が、すぐ近くで響いた。

「でも、君が選んだなら、俺はそれに従う」

ロザリンドは顔を上げられなかった。

顔を上げたら、たぶん、自分が今どんな顔をしているのか、相手に見られてしまう。それだけは、けたかった。社畜しゃちくの最後の意地いじのようなものだった。

代わりに、いつもの口調を、無理やり引っ張り出した。

「……閣下」

声が、自分のものではないみたいに掠れた。

「少しだけ、時間をください」

一拍。

「私は、数字の処理なら、誰よりも速いんですけれど」

一拍。

「自分の感情の処理だけは、致命的ちめいてきに、下手なんです。たぶん、ずっと前から。──気づかないふりが、いちばん得意で」

いつもの皮肉のような、いつもの自虐じぎゃくのような、いつもの口調。

けれど、語尾ごびだけが、わずかに、れていた。

ルーカスは、何も言わなかった。

ただ、彼女の手を包んだまま、ほんの少しだけ、口の端が、動いた気がした。

氷の大公が、笑いかけた、ような、気配けはい

完成しない。完成させない。彼はまだ、そこまでは見せない。

けれど、確かに、何かが、動いた。

包まれた手の中の、温度だけが、そこにあった。

「少しだけ、時間を、ください」

その「少しだけ」が、自分でも、どのくらいの長さを指しているのか、ロザリンドにはわからなかった。

ただ、ひとつだけ、確かだった。

逃げる方の「少しだけ」では、ない。


その夜、ロザリンドは机に向かって、白紙はくしを一枚、広げた。

いつもの試算表ではない。

頭の中の引き出しの、いちばん奥にしまっていた、雇用契約書のひな型を取り出して、最初の条項から、書き直しはじめる。

書こうとして、ペン先が、ほんの一拍、止まった。

数字なら、半秒で組み立てられる。合わない試算表でも、朝まで埋めてきた。

それなのに、その先の一行だけが、どうしても、書けなかった。

第49話 見つけてもらえた

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『王妃という名の社畜2.0、お断りします』は、前世を思い出した悪役令嬢が、自分の人生を取り戻す物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。