第31話

辞めた職場から、半年後に頭を下げに来た

「──違約金は、祖国の財政(ざいせい)では、絶対に支払(しはら)えない額」

まだ誰にも告げていないその一文を、ロザリンドは執務机の上で、一度だけ、口の中で転がしてみた。

七日後の朝。

大公国(たいこうこく)の正門(せいもん)に、見慣れない紋章をつけた馬車が一台、ゆっくりと滑り込んできた。

走り寄った門衛(もんえい)が、覚えのある紋様(もんよう)に一瞬、足を止める。

──アルバート王国、王家直属(おうけちょくぞく)の特使旗(とくしき)。

馬車から降りた老人は、見るからに疲弊(ひへい)していた。旅装の埃(ほこり)を払うのも忘れ、最初の一言は、案内役の侍従にではなく、空へ向かって落ちた。

「……ようやく、着いた」

その声を、控えていたアンナが冷ややかに聞き取り、業務日誌(ぎょうむにっし)の隅に短く一行を書き加えた。

「祖国特使、到着。──疲労が顔に出ている」

執務室。

ロザリンドは、机の上に並べた三枚の書類を、もう一度上から下に確認していた。

一枚目、両国間覚書(りょうこくかんおぼえがき)の写し(大公国とアルバート王国の署名済(しょめいず)み)。

二枚目、覚書の干渉条項(かんしょうじょうこう)と補填(ほてん)算定書。

三枚目、祖国アルバート王国の最新の国家予算試算(諜報網(ちょうほうもう)経由)。

ペン先で、三枚目の末尾に小さく赤い丸を付ける。

(祖国の財政では、絶対に支払えない額)

口の中で、ほんの少し、笑った。

前世(ぜんせ)の田中律子(たなかりつこ)が、ついに出せなかった書類は、たった一枚──辞表(じひょう)だった。

同僚が一人、また一人と辞めていくたび、その分の仕事だけが律子の机に積み上がっていく。負う責任は増えていくのに、給料の額は、一円も変わらない。

それでも「君が抜けたら、現場が回らない」と引き止められると、責任感の強い律子は、どうしても辞表を出せなかった。

あのときの自分に、今のこの机を見せてやれたら。

(律子、立場って、書類で変わるのよ)

胸の内側で、ひそやかに呟(つぶや)く。

書類の一枚目──覚書の署名欄(しょめいらん)に、ヴェルナント大公ルーカスの筆跡と、祖国宰相エルヴィン・ガレットの花押(かおう)が、並んで残っている。

その時、ノックの音がした。

「ロザリンド殿(どの)。──入る」

返事を待たずに、扉が開く。普段の閣下らしくない入り方だ、とロザリンドは内心で目を瞬かせた。

入ってきたルーカスは、ロザリンドの机の前まで来ると、書類を見もせずに言った。

「面会は午後二時。場所は北の応接間(おうせつま)。同席(どうせき)は、君と俺、書記官二名、衛士(えいし)二名」

「承知いたしました」

「衛士は、君の側に立てる」

ロザリンドはペンを置いた。

「閣下、特使は老齢(ろうれい)の文官(ぶんかん)ですわよ。武力的(ぶりょくてき)な危険(きけん)は──」

「衛士は、君の側に立てる」

二度目の声が、一度目より半音低かった。

ロザリンドは口を一度開けかけ、それから素直に頷いた。

「では、そのように」

(労務管理として、こちらの守りを固めつつ、面会者には心理的(しんりてき)な圧(あつ)をかける布陣(ふじん)。交渉(こうしょう)を有利に運ぶおつもりですわね。さすが閣下)

ロザリンドの中で、その配置はあくまで交渉戦術(こうしょうせんじゅつ)の合理(ごうり)として処理される。

ルーカスはそれを否定も肯定もせず、机に置かれた三枚の書類に、ようやく視線を落とした。

「準備は、できているようだな」

「ええ、もちろん。両国間覚書は、署名した両国を等しく縛(しば)るための文書ですもの。こういう時のためにあるんですのよ」

低く、短い笑い声が、ルーカスの喉の奥で鳴った。

ロザリンド以外の人間が聞いたら、それを笑い声だと認識(にんしき)できなかったかもしれない。

午前十時。

大公国の応接間の隣室(りんしつ)で、書記官が祖国特使(そこくとくし)の控えを案内していた。

老特使は、待たされる間に、控え室の窓から大公国の街を眺(なが)めていた。

整然と区画(くかく)された商業区(しょうぎょうく)。新しい港から伸びる白い道。市(いち)の立った広場(ひろば)では、子供たちが、見たこともない種類の硬貨(こうか)を弾いて遊んでいる。

──新貨(しんか)だ、と老特使は気づいた。

ロザリンド・エイベルが設計(せっけい)し、ルーカス・ヴェルナント大公が裁可(さいか)したという、あの。

老特使の指先が、わずかに震えた。

机に置かれた紅茶のカップに、彼は手を伸ばせなかった。

応接間。

午後二時、五分前。

ロザリンドは、自分の席に着く前に、もう一度、三枚の書類の順序(じゅんじょ)を確認した。

一、両国間覚書。

二、干渉条項と補填算定書。

三、国家予算試算。

順序は、間違えない。

──順序を間違えなければ、結論(けつろん)は、もう、書類の中にある。

扉が開く音がした。

特使を案内する書記官の足音と、その後ろに続く、もうひとつの、ためらいがちな足音。

ロザリンドは静かに顔を上げた。

入ってきた老特使の顔を、見覚えがあった。

幼い頃、父の執務室で書類の使い走りをしていた頃、何度か挨拶(あいさつ)を交(か)わした財務官。穏(おだ)やかで、誠実(せいじつ)で、自分の手柄(てがら)を黙(だま)って上に差(さ)し出してしまう癖(くせ)のある人だった。

──そう、彼の名で出した試算が、ことごとく王太子(おうたいし)の発案(はつあん)として奏上(そうじょう)された時代があった。

胸の奥で、前世のフラッシュバックがひとつ、軽く瞬いた。

会議室(かいぎしつ)の白い天井(てんじょう)。長机(ながづくえ)の向こうから、一枚ずつ、順序通りに滑(すべ)らせて寄こされた、三枚の紙。契約(けいやく)の満了日(まんりょうび)。更新(こうしん)しないという通知(つうち)。最後に、署名(しょめい)欄。その順序で並(なら)べられてしまえば、反論(はんろん)の余地(よち)は、どこにもなかった。

(今日は──こちらが、順序通りに提示(ていじ)する番ね)

ロザリンドは、ゆっくり立ち上がって、礼(れい)の角度を完璧(かんぺき)に作った。

「──ようこそ、ヴェルナント大公国へ」

老特使の顔から、わずかに、血の気が引いた。

横で、衛士の靴音(くつおと)が一歩、ロザリンドの側へと近づく。

応接間の壁の時計が、午後二時を打った。

──祖国を救う最後の使者は、自分が助けを求めに来たこの場所で、引導を渡されることを、まだ知らない。

第31話 辞めた職場から、半年後に頭を下げに来た

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『王妃という名の社畜2.0、お断りします』は、前世を思い出した悪役令嬢が、自分の人生を取り戻す物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。