第12話

通商条約の綻び

(……は? 国家予算の七年分が、ドブに捨てられてた?)

ロザリンドの口から、淑女(しゅくじょ)らしからぬ低い呟(つぶや)きが漏れかけて、淑女の声音で押し戻された。

「お茶のお代わりはいかがですか、ロザリンド様」

「ありがとう。砂糖は二つで」

目線も上げずに、ロザリンドは答えた。

執務机の上には、革表紙の通商台帳(つうしょうだいちょう)が、三段に積まれている。一番上の山は、過去五年分のアルバート王国――祖国――との関税記録(かんぜいきろく)。二段目は、それ以前の三十年分。三段目は、付帯協定(ふたいきょうてい)と覚書の写し。

ロザリンドが顧問(こもん)の席についてから、二週間。

朝のうちに既存条約を全部洗うと決めて、片端から、ページをめくっていく。

「……ふぅん」

短い呟きが、ひとつ。

それから、銀色の睫毛(まつげ)が、半秒だけ、伏せられた。

(鉄鉱(てっこう)、銀鉱(ぎんこう)、毛織物(けおりもの)──祖国以外(そこくいがい)との通商協定(つうしょうきょうてい)、なし。三品目とも、事実上の独占供給(どくせんきょうきゅう))

ロザリンドの視線が、ある一行で止まっていた。

(手数料(てすうりょう)、宰相府経由(さいしょうふけいゆ)、固定上乗せ、十パーセント)

(──つまり、鉄も銀も毛織物も、買うたびに自動で十パーセント、祖国にピンハネされる仕組み)

(……これ、誰が交渉(こうしょう)したんでしょうね。ありえないわ)

声には出さない。

ただ、前世の田中律子(たなかりつこ)が、終電前のオフィスで新人の上げてきた契約書を読んだときと、まったく同じ姿勢になっていた。

利益のラインを片手で押さえ、不利な条項をもう片手の指で数える。指は、片手の五本では足りなかった。

「……お見事ですわね」

皮肉の声に、近くにいた事務官長(じむかんちょう)――白髪まじりの初老の男・オズワルドが、わずかに肩を震わせた。

「あの、ロザリンド様。それは、その、先代の閣下のご署名で……当時はまだ、わが国も若くて、祖国の鉱物と後ろ盾なしでは立ち行きませんでしたので。その代わりに、と差し出した条件が、まあ、当時の宰相が人の良いお方で……それに、今もって、他国とは関税の壁が高うございますから、結局、鉄も銀も毛織物も、祖国からしか入って参らず……」

ロザリンドは、ようやく顔を上げた。

「人が良いというのは、契約交渉では美徳(びとく)ではありませんわ」

事実を述べる声だった。

「美徳になるのは、結婚式の祝辞と、葬儀(そうぎ)の弔辞(ちょうじ)だけです。契約書の上では、罪です」

オズワルドの顔から、表情が、すっと抜けた。

それから、深く、頭を下げた。

「……仰せの通りでございます」

ロザリンドは、ペンを取った。

羽根の先が、白紙のメモ用紙の上を、滑り始める。

過去三十年。独占供給による割高分(わりだかぶん)。宰相府手数料の累計上乗せ。

数字が、彼女の指の下で、勝手に整列(せいれつ)していった。

(三十年で、累計、大公国側の損失は……ざっと、国家予算の七年分)

数字を出した瞬間、ロザリンドの口角が、ほんの一ミリ、上がった。

笑ったのではない。

前世の田中律子が、上司の決裁したクソみたいな外注契約の損失額を三徹(さんてつ)明けの朝に叩き出して――その数字を眺めた瞬間に、ひらめいた。あのときと、同じ顔だった。

──ああ、これ、巻き返せるやつだわ。

ロザリンドの中で、二つの声が、重なって、同じことを呟いた。

執務室の扉が、静かに開いた。

ロザリンドは振り向かない。羽根ペンの動きも止まらない。

オズワルドだけが、はっと姿勢を正して、深く礼をした。

「閣下」

ルーカスだった。

書類もない。決裁を持ってきた様子もない。

ただ、半歩だけ室内に入って、机に積まれた台帳の山を視線でひと撫でし、ロザリンドの背中を見た。

それから、何も言わずに退いて、扉を閉めた。

所要時間、十秒に満たない。

執務室には、ロザリンドの羽根ペンの音だけが、また、戻ってきた。

「……オズワルド」

「はい」

「閣下、何かご用だったかしら」

「いいえ、ロザリンド様」

オズワルドは、ひと呼吸、置いた。

「閣下が、ご自分から執務室の様子を、わざわざ見にいらっしゃるのは……極めて、珍(めずら)しいことでございます」

ロザリンドは、メモの「累計七年分」という数字の横に、丸印を打ちながら、軽く頷いた。

「業務確認の頻度設定(ひんどせってい)なんでしょう。新任者の二週目に進捗(しんちょく)を見る、合理的ですわ」

オズワルドの口の端が、わずかに、ひきつった。

「……さようでございますか」

「ええ」

ロザリンドは、すでに、次のページをめくっている。

オズワルドは、廊下のほうをちらりと見た。

――たぶん、閣下はまだあのあたりで、足を止めている。

口には出さない。気のせいだ、と、自分に言い聞かせる回数が、最近、増えていた。

夕方近く、ロザリンドは、ペンを置いた。

メモの最後の行に、こう、書き付けてあった。

一.他国と相互関税引下げ(そうごかんぜいひきさげ)の通商協定を新規締結

二.鉱物・繊維の調達ルートを海路(かいろ)で多元化

三.祖国産の鉄鉱・銀鉱・毛織物への輸入関税(ゆにゅうかんぜい)を段階的(だんかいてき)に引き上げ

三行。

提案書(ていあんしょ)の骨子は、すでに、できていた。

ロザリンドは、伸びをひとつして、執務机の隅にある、油紙(あぶらがみ)の包みに目をやった。

昨日の屋台の、おまけの団子(だんご)の最後の一串。朝に温かいお茶と一緒にいただこうと、机の隅に置いておいたものを、結局、まだ食べていなかった。

「……あら」

没頭(ぼっとう)していて、忘れていた。

ロザリンドは半秒だけ自分の手元を見て、短く笑った。

──律子だったら、デスクの引き出しに突っ込んで、三日後にはカビさせていたわね。

今日は、違う。

明日の朝、ちゃんと、温かいお茶と一緒に、食べよう。

そう思える時間が、自分の手元にあること自体が、まだ、少しだけ、不思議だった。

「オズワルド」

「はい、ロザリンド様」

「対外通商の再設計案(さいせっけいあん)を、明日の朝までに、閣下にご提出します」

オズワルドが、息を呑む音が、聞こえた。

「……明日の、朝でございますか」

「ええ。資料は揃いましたから」

ロザリンドは、台帳の山の一番上に、メモを一枚、丁寧に重ねた。

「では、今夜中に清書します。砂糖はあと二つ、お願いね」

オズワルドは、深く、頭を下げた。

廊下に出た瞬間、彼は、もう一度、足を止めて、執務室の扉を振り返った。

その向こうで、銀髪の女が、もう次の羽根ペンを握っている。

──三十年、誰も触れなかった条約に、明日の朝、火がつく。

オズワルドの背筋を、初めて、冷たくないものが、走り抜けた。

その同じ刻限(こくげん)、祖国の宰相府では、いつも通り、十パーセントの手数料が、いつも通り計上(けいじょう)されていた。

明日の朝、その「いつも通り」が、終わる。

祖国はまだ、何が始まったのか、知らない。

知ったときには、もう、消せない。

第12話 通商条約の綻び

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『王妃という名の社畜2.0、お断りします』は、前世を思い出した悪役令嬢が、自分の人生を取り戻す物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。