第18話 018

マントと労務管理

会場の温度が、一段、下がった。

楽士の曲が緩やかなものに変わる頃合い。バルコニーの大窓から、夜気が低く滑り込んでくる。広間の隅で、令嬢たちがそっと肩のショールを引き寄せ始めていた。

ロザリンドは壁際に立ち、給仕から渡されたグラスを指先でもてあそんでいた。

露出のあるドレスを着たのは、今夜が初めて。──本人としては「業務上の正装」という認識でしかない。

肩が、ほんの少し震えた。

寒い、と思う前に、銀髪の生え際がわずかに粟立あわだっていた。


歩み寄ってくる足音には、気づいた。

会場中の視線が、その足音の主に集まっているのも、感覚で把握していた。

ロザリンドが振り向こうとして、振り向けなかった瞬間──

肩に、布が、落ちた。

半歩後ろに立ったルーカスが、自分のマントを無言で外し、ロザリンドの肩に置いた。

それだけだった。

視線を一度だけ交わす。ルーカスは何も言わない。

そのまま、半歩離れた位置に立ち直しただけだった。

会場が、息を呑んだ。


楽士の弓が、ほんの一瞬、遅れた。

扇の陰のささやきが、ぴたりと、止まった。

「……今、閣下が」

「ご自分のマントを?」

「あの方が?」

囁きは、波紋のように、広間の端まで広がっていく。

ベアトリスが扇を取り落としかけ、すんでで握り直す。クラリッサが頬の血の気を失っていた。オフィーリアは、なぜか自分の肩を抱いた。

ルーカスは、誰も見ていなかった。

広間にいるとして、視線を拾わない。給仕に「水を」と短く告げて、それきりだった。


ロザリンドは肩のマントを、わずかに引き寄せた。

ずっしりと重くて、温かい。

(寒さ管理は、労務管理の一環)

田中律子たなかりつこの声が、勝手に翻訳していた。

(前世の上司は、部下が倒れてから「無理するな」と言うタイプ。倒れる前に物理的に温度を補正してくる上司は、はるかに有能。──閣下、リスクヘッジの感度が極めて高い)

質のいい毛織。重さの分散が完璧。掛け置き用ではなく、本来は閣下ご自身の防寒用。──つまり、自分の防寒予算を部下の業務効率に転用したということだ。

(合理的)

ロザリンドは深く頷いた。

(明日は私もショールを多めに。業務効率の最適化は、部下の側からも歩み寄るべきですわ)

会場のざわめきは、止まなかった。

ロザリンドは、ざわめきの意味を一切把握していなかった。


──別の場所で。

広間の柱の陰、給仕の動線から外れた死角に、寡黙な剣の達人と呼ばれる側近が、書類の束を抱えて立っていた。

ルーカスがわずかに首を傾けて、その横に並ぶ。

「閣下」

側近の声は、楽士の音に紛れる程度に低い。

「ハインリヒ伯爵家から打診のございました縁談、書類が届いております。クラリッサ嬢、オフィーリア嬢のご縁談につきましても、先方から再確認の使者が」

ルーカスは、グラスを口に運んでから短く答えた。

「そのままで」

「……かしこまりました」

側近は、それ以上何も訊かなかった。

「そのままで」が、何を意味するか。書類が動かず、使者が手ぶらで戻り、縁談が立て続けに立ち消えていく未来が、その一語に圧縮されていた。

ルーカスはもう一度、広間の端に視線を流した。

ロザリンドが、肩のマントを無造作に羽織り直している。

「……寒そうにしていた」

側近にしか聞こえない声で、ルーカスはそれだけ付け加えた。

側近は視線を書類に落とし、返事をしなかった。長く仕えて、返事をしないほうがよい場面の見極めだけは、誰よりも身についている。


ロザリンドが壁際に戻ろうとした時、給仕の少女が、頬を赤らめて、近づいてきた。

「あの……お客様、温かいお飲み物を、お持ちいたしましょうか」

「ありがとう。ハーブの茶があれば」

「は、はい、ただいま!」

小走りに離れていく後ろ姿を見送って、ロザリンドはもう一度マントを引き寄せた。

──大公国の使用人は、本当に気が利く。

(人事評価制度が健全に回っている証拠ね)

しみじみと、業務的な感慨に浸った。


夜会の終わりがけ。

馬車に戻る回廊で、ロザリンドはルーカスに、丁寧に頭を下げた。

「閣下。マント、お返しいたしますわ。ご厚意、ありがたく頂戴いたしました」

「いい」

短い返事だった。

「明日まで、持っていろ」

「……は」

ロザリンドは三秒考えてから、頷いた。

「ありがたく承ります」

「明日まで」が業務上どういう意味なのか、翻訳が間に合っていなかった。とりあえず命令の優先順位を尊重する。これも労務管理の一環だ。

ルーカスはそのまま、回廊の先へ歩いていった。

ロザリンドは肩のマントの内側で、自分の指先がもう冷たくないことに気づいた。


馬車の中で、ロザリンドは膝のマントの裾を、ぼんやりと指でなぞっていた。

質のいい毛織。縫製は大公国の工房。──職業病で、つい生産地と原価を見積もってしまう。

(明日、洗ってお返ししなくては)

そう思いながら、ふと布地の縁を引き寄せた。

うっすらと、誰かの匂いがした。

香水の銘柄として識別しようとして、できなかった。

香水ではなかった。

ただの、誰かの体温の名残だった。

ロザリンドの指が、半秒だけ止まる。

そして、いつものように、また動き出した。

(……明日、洗濯指示を出す前に、香りを移さないよう一度風通しを)

田中律子の声が、勝手に家事タスクを翻訳していた。

馬車の窓の外を、大公国の街灯がゆっくりと流れていく。

肩に残った重みの意味を、ロザリンドはまだ、正しく理解していない。

──翌週の月曜日。

大公宮の事務官たちのもとに、嫌味令嬢三人衆の縁談が「先方の都合で白紙」になった旨の通達が、立て続けに届くことになる。

その頃にはもう、社交界の隅々で、別の噂がささやかれ始めていた。

がいる、と──」

第18話 マントと労務管理

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『王妃という名の社畜2.0、お断りします』は、前世を思い出した悪役令嬢が、自分の人生を取り戻す物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。