第36話 036

あの子の名前は、昨日のうちに決まっていたらしい

産後二週間。

ミリアは寝台に座らされていた。背の半ばまで積まれた書類の山に、囲まれて。立ち上がるだけで下腹に鈍い熱が走る。

世継よつぎ様に障りますから、安静あんせいになさってくださいませ」

侍女はそう言って、また新しい束を運んでくる。

──安静にしろと言うのなら、なぜ書類が増えるのか。

聞かなかった。答えは「きさきの務めにございますから」と同じだからだ。

便利な言葉だこと。体調を崩せば「お体の管理がなっていない」。休みたいと言えば「妃の務めにございます」。

この体は、いつから私のものでなくなったのだろう。

──おかしいでしょう、こんなの。

羽根ペンを握る指がしびれる。文字が二重に見える。

けれど止めれば、「妃の自覚が足りない」と王太后おうたいごうの耳に届く。

「ミリア様、お茶を」

侍女が湯飲みを差し出した。ミリアは口を開きかけて、やめた。

茶を飲む暇があるなら一枚多く捌け。誰でもない、自分の中の声がそう言う。

産む前は、これほどの量は回されなかった。守られていたのは私ではない。腹の中の、あの子だったのだ。

産んだばかりの妃に、休む間も与えず筆を握らせて、それで「妃の務め」。

──私は聖女よ。神に選ばれた女が、なぜこんな雑な扱いを受けなければならないの。世の中、腐ってるわ。

それでもミリアは、侍女の前では、にこやかに次の一枚へ手を伸ばした。


そのころ、大公国たいこうこくヴェルナント、執務室。

ロザリンドは羽根ペンを置こうとして、置けなかった。次の書類が、もう手の中にあったからだ。

文字がにじむ。瞬きして焦点しょうてんを合わせ直すと、数字すうじの桁が一つずれて見えた。

──あと一枚。手を伸ばした拍子に、ペン先が紙を滑り、いびつな線を引いた。

扉が開く。ノックはなかった。この部屋にノックなしで入れる者は、一人しかいない。

「終わりだ」

ルーカスの低い声。

「え?」

顔を上げると、ルーカスが手から羽根ペンを引き抜いていた。抗議こうぎしようとして、できなかった。彼の視線が、自分の手元に──インクのにじんだいびつな線に、落ちていたからだ。

「字がゆがんでいる」

怒ってはいない。けれど、いつもより少しだけ、低い声だった。

「……気づきませんでした」

「だろうな」

ルーカスは書類を二つの山に分け直しはじめた。手際てぎわが良すぎて、止める間がなかった。

「明日でいいものと、今夜でなければ困るもの。──今夜でなければ困るものは、ない」

「ですが、関税の修正案しゅうせいあんは──」

「私が朝までに目を通す」

ロザリンドは口を開きかけて、閉じた。この男は、私の業務量を、私より正確に把握している。

ルーカスは長椅子の脇の膝掛ひざかけを取り、ロザリンドの膝に無造作むぞうさにかけた。冷めた茶を下げ、新しい湯飲ゆのみを置く。湯気ゆげの温度まで、ちょうどいい。

「君は、自分が疲れていることに、いつも一番最後に気づく」

淡々と、けれど目はそらさずに。

明後日あさって医師団いしだんを執務室に常駐じょうちゅうさせる。君の体調たいちょうは、君が気づく前にひろえるようにしておく」

「そこまで──」

「この仕事は、一年や二年で終わるものじゃない」

書類の山を抱え直しながら、ルーカスは言った。

「長くつづく。十年も、二十年も。だから、ここで君に倒れられては困る」

「……」

「君は仕事を、これからも

その一言で、口を噤んだ。

続けたい、と思っている自分に、ロザリンドはこの瞬間、気づかされた。──長く。これからも。倒れない範囲で、ずっと。

ルーカスは答えを待たなかった。それが当然だと最初から知っていたみたいに頷いて、書類の半分を抱えて出ていった。

残された湯飲みから、ちょうどみ頃の湯気が立っている。

──ずいぶん、長い目で人を査定する上司だこと。

そう胸の中でつぶやいて、ロザリンドはようやく息を吐いた。

膝にかけられた膝掛ひざかけは、まだ彼の手のぬくもりを残している。

働き手を、使つかい潰さない。倒れる前に休ませ、長く働けるよう体ごとまもる。

「長く働き続けられる労務環境、というものが、本当にあるのね」

ロザリンドは、湯気の向こうへ、誰にともなく声に出していた。

前世から数えて、どれだけ働いてきただろう。これほど当たり前に体をいたわられたのは、初めてだった。

「ありがたいこと。良い上司に恵まれたものだわ」

素直に、そうつぶやいた。

温かい茶を、ひとくち。み込むような甘さだった。

扉の脇で書類を抱えていた秘書官ひしょかんのアンナは、その呟きと横顔を見て、思わず天井をあおいだ。

膝掛ひざかけ。湯気の温度。果ては明後日からの医師団常駐まで。あれだけ手を尽くしておいて、──「良い上司」の一語で片づけてしまわれるとは。

閣下があの方の前でだけ氷の仮面を脱ぐのを、自分はもう何度も、間近で見ているというのに。

(……気づいて。お願いですから、どうか一度、気づいてくださいませ……!)

込み上げる叫びを、アンナは抱えた書類の束に、ぐっと押し込めた。


翌日、ようやく面会の許可が下りた。

産んでから、四度目の面会。

乳母の腕の中で、息子は眠っていた。

頬は丸く、呼吸こきゅうおだやか。包まれたきぬのおくるみは、王宮でも最上等さいじょうとうのもの。乳母は王太后が大陸中たいりくじゅうからり抜いた。

何ひとつ、不足はない。

ただ、ミリアの腕の中ではない。それだけ。

「お抱きになりますか、母君様ははぎみさま

──当たり前でしょう。私の子よ。許しを乞うて抱くものでもないわ。

──それに、母君、母君って。私には、ミリアという名前があるのよ。

胸の内で毒づきながら、ミリアは「ええ、ぜひ」と、花のように微笑んだ。

乳母が静かに息子を差し出した。

両手を伸ばす。震えた。受け取った瞬間、小さな体がじろぎして──火がついたように泣き出した。

「あら、あらあら」

乳母が苦笑して手を伸ばす。

れていらっしゃらないだけですわ。ご無理なさらず」

取り上げられた息子は、乳母の胸ですぐにき止んだ。まるで、本当の母がそこにいるみたいに。

ミリアは空になった腕を膝に置いた。手のひらに、子のぬくもりだけが薄く残っている。

──慣れていらっしゃらないだけ。

──その慣れる時間を、奪っているのは、そちらでしょう。

はらわたが、煮えくり返った。空になった腕に、ぐっと力がこもる。

それでも、ミリアは微笑みを崩さなかった。

ここで取り乱せば、「やはり母君は情緒が不安定」と、また一つ理由を与えるだけ。

──笑っていなさい。笑って、隙を見せてはだめよ。

煮えたぎる湯に、自ら蓋をするように。ミリアは、にっこりと頷いてみせた。


扉が開いた。

「世継ぎ様の母君」

王太后だった。

ミリアは反射的はんしゃてきに背筋を伸ばした。下腹がずきりと痛む。顔には出さなかった。

「あなたは次の御子をさずかることに専念なさい。育児いくじ専門せんもんの者に任せれば良いのです」

王太后は孫を覗き込み、満足げに頷いた。

「この子の養育方針よういくほうしんは、私が全て差配します。乳の与え方、かしつけ、御名ぎょめいの祝いの席次、家庭教師かていきょうし選定せんてい──すべて。あなたは世継ぎを健やかに産んでくださった。十分、お役目は果たされたのですよ」

められている。頬を撫でられるような、優しい声音で。

──いいえ。これは、ねぎらいの顔をした引導いんどうだ。役目を終えた者へ渡す、お払い箱の。

乳の与え方も、寝かしつけも、ぜんぶそちら。母親に、子の何ひとつ触らせない。

──実の母より、自分のほうが正しく育てられるとでも?

腹の底でそう吐き捨てながら、ミリアは「ありがとうございます」と、たおやかに頭を垂れてみせた。

なのに、口は動かなかった。

「あの──」

しぼり出すように言った。

「あの子の、名前は」

「ライオネル、と名付けました。アルバート王家にふさわしい御名でしょう」

ミリアは、知らなかった。

あの子の名前は、昨日のうちに、決まっていたらしい。

「世継ぎ様の母君は、ゆっくり静養せいようなさい」

王太后は微笑んで、孫を抱いたまま部屋を出ていった。乳母も一礼して続く。

扉が閉じる。

寝室には、ミリアと、積まれた書類だけが残った。

──ライオネル。

唇の上で転がしてみる。知らない名前だった。

──私は、母親よ。

なぜ、相談のひとつもなく、勝手に決めるの。腹を裂いて産んだのは、私。それなのに、名前を選ぶ権利すら、与えられない。

ミリアは、閉じたばかりの扉を、きつく睨みつけた。

たおやかに頭を垂れていた、ついさっきまでの顔は、もうどこにもなかった。


翌朝、寝台の脇には新しい書類の山が届いていた。

その一番上に、一通の早馬便はやうまびんが乗っている。封蝋は後宮内こうきゅうないのもの。

指が震えた。

──陛下から、お見舞いのお言葉だろうか。

産後、まだ一度も、夫は会いに来ていない。

息を整えて、封を切った。

そこにあったのは、見舞いの言葉ではなかった。

世継よつぎ誕生を祝う、公式行事の式次第しきしだい。出席者の名がずらりと連なっている。王太后おうたいこう。各国の使者。大司教だいしきょう

そして、本来なら主役であるはずの、母の欄。

世継よつぎ様の母君、ご臨席りんせきのこと』

指が、止まった。

何度、目で追っても。

──「ミリア・ロウ」という名は、その紙のどこにも、なかった。

夫からの言葉も、一文字も。

求められているのは、ただ椅子に座って微笑む、やくの名前だけ。

封蝋を割った意味すら、もう、わからなかった。

第36話 あの子の名前は、昨日のうちに決まっていたらしい

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『王妃という名の社畜2.0、お断りします』は、前世を思い出した悪役令嬢が、自分の人生を取り戻す物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。