第48話 048

3年前から、ずっと見ていた

東棟ひがしとうの、あの小部屋。暖炉に、新しい薪がくべられた。書類が一枚もない机。羽根ペンも、判子はんこも、決裁箱けっさいばこの山もない。あるのは、紅茶のカップが二つと、いつもの焼き菓子の皿だけ。

ロザリンドは試算表を持たないまま、膝の上で両手を組んで座っていた。

「君が来る3年前」

ルーカスは窓の外を見たまま、ゆっくりと言葉を続けた。

冬の薄明うすあかりが、彼の頬骨ほおぼねを薄く撫でている。普段の「氷の大公」の角度が、わずかに崩れていた。その崩れを見ている人間は、この世にロザリンドひとりしかいない。本人だけが、それに気づかないまま。

「王太子主催のパーティがあった。アルバート王都おうと宮廷きゅうてい。冬の終わりだった。俺は政略せいりゃく上、出席せざるを得なかった。会場には三百人ほどの貴族令嬢きぞくれいじょうがいた。一人残らず、俺の視線を欲しがっていた」

「……それは、想像にかたくありません」

「壁際に、一人だけ、本を読んでいる令嬢がいた」

ロザリンドのまばたきが、一回だけ、わずかに遅れた。

「銀髪の。誰とも話さず、誰にも話しかけられず、シャンデリアの真下から最も遠い柱の影で、革表紙かわびょうしの本を開いていた。経済書だった。タイトルまで覚えている。需要と供給、そして死荷重しかじゅうについての一冊だ」

「……はあ」

「俺は近づいた。声をかけた。本のページから目を上げずに、彼女はこう答えた」

ルーカスが、初めて、こちらに視線を戻した。

「『制度設計をする際は、死荷重しかじゅう──誰の手にも渡らず消える富まで、計算に入れないといけません』」

ロザリンドは三秒、何のことかわからなかった。

そして、四秒目に、自分の口から出た言葉だと気づいた。

「……」

「……」

「……あの方が、閣下、でしたか」

「あの一言を、

ルーカスは、視線を逸らさなかった。

「ずっと、だ。3年、君のしてきた仕事を、遠くから追っていた。──監視ではない。一度きりすれ違った人間のことが、どうしても、頭から離れなかっただけだ」

そこまで言って、彼は、ふと、声を落とした。

「……いや。3年前から、というのも、違う気がする」

自分の言葉に、自分で戸惑とまどったような、横顔だった。

「たぶん、もっと前から。──生まれるより、前から。俺はずっと、君を探していた気がする」

ロザリンドは膝の上で組んだ指の力の入れ方を、わずかに間違えた。

「お待ちください。3年前と申しますと、私はまだ十五歳で、領地経営りょうちけいえいを引き継いだばかりで、王太子妃候補おうたいしひこうほとしての公務こうむもまだ本格化していない時期で、つまり、私が顧問就任こもんしゅうにん打診だしんを受ける三年も前から、閣下は──」

「ああ」

「……それは、業務上、どう処理すれば」

「処理する必要はない」

ルーカスがわずかに首を傾けた。普段は何百人の前でよどみなく演説えんぜつする男が、机の上の何もない一点に視線を落として、続きを言おうとして、言葉を、失った。

「……いや」

「閣下?」

「……すまない、続きは」

口ごもった。

ロザリンドは初めて、そのくちごもりを聞いた。

頭のどこかで、社畜しゃちくOLの観察癖かんさつへきが、勝手に作動する。会議室で重役じゅうやくの言い淀みを読み取ってきた癖が、いま、目の前の男にだけ針を振った。

語彙が足りないのではない。彼は、選ぶ言葉の重さを、量り損ねている。

その意味するところを、ロザリンドはまだ、業務外の引き出しから取り出せずにいた。

暖炉の薪が、ぱき、と鳴った。


沈黙が、長くなった。

ルーカスは机の上の焼き菓子の皿を見ていた。ロザリンドが普段、無意識に手を伸ばすほうの皿だった。彼が毎朝、誰にも気づかれないように、執務机に常備させているもの。

その沈黙を埋めるように、彼は、ほとんど呼吸のような小ささで、呼んだ。

「……ロージー」

一拍。

ロザリンドの右手が、膝の上で、止まった。

「閣下、それは」

「ロージー」

二度目だった。最初より、ほんの少しだけ、声が確かになっていた。

「そう呼ばせてくれ。二人きりのときだけでいい」

ロザリンドの口は、皮肉を返す位置で構えていた。労働には対価が伴います。呼称こしょうの変更は契約書のどの条項に該当しますか。けれど、舌が動かなかった。

「閣下」

「答えは、今すぐでなくていい」

「……」

「業務報告は、明日でいい」

「……は」

ロザリンドは、立ち上がる動作の手順を、なぜか頭の中で復唱した。椅子を引く。腰を上げる。礼をする。退室する。手順は知っているのに、最初の一手が始まらない。

ルーカスは彼女を見ていた。

返事を待つでもなく、追うでもなく、ただ、3年間と同じ距離で、見ていた。

ロザリンドはようやく椅子を引いた。

「閣下」

「ああ」

「……第三四半期だいさんしはんきの試算は、明日、改めて」

「ああ」

退室の礼をして、扉に手をかけた。

──ノブを握った瞬間、ロザリンドは気づいた。

ルーカスは、まだ、本題を言っていない。

「3年前から、ずっと見ていた」と、「ロージー」と。それだけで、彼は今日、口を閉じた。続きを、明日に、り越した。

東棟の廊下に出て、扉を閉めて、三歩進んだところで、ロザリンドは、止まった。冬の窓の縦の格子こうしが、廊下の床にしまをつくっている。彼女はその縞の一本のうえに立っていた。

──ロージー。

口の中で、もう一度、その音を確かめた。誰にも聞かれないように、息だけで。

田中律子たなかりつこは、誰にも、愛称あいしょうで呼ばれたことが、なかった。

その記憶が、なぜ今、ここでよみがえるのか、ロザリンドはまだ言葉にできない。けれど、胸の上に置かれた紙片の重みが、昨夜より、一段、増していた。

ロザリンドは縞の上から一歩、外に踏み出した。歩き出した。背筋を伸ばして。けれど、頬の内側だけが、なぜか、まだ、熱かった。

──明日。

明日もう一度、あの扉を開ければ、彼は、続きを言う。

それが何なのか、ロザリンドはまだ、言葉にできない。

ただ、契約書のどの条項にも、それを処理する欄が、ないことだけは、わかっていた。

第48話 3年前から、ずっと見ていた

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『王妃という名の社畜2.0、お断りします』は、前世を思い出した悪役令嬢が、自分の人生を取り戻す物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。