第13話

対外通商の再設計

「で、君はこれをいつから始める?」

反対意見でも、修正指示でも、検討委員会(けんとういいんかい)への差し戻しでもない。着手日だけを訊かれた。

ロザリンドが、初めて、ルーカスを「優秀な決裁者(けっさいしゃ)」として認識した瞬間だった。

──時間を、少し巻き戻す。

翌朝の執務室は、いつもより静かだった。

ロザリンドが提出した提案書は、三枚。羊皮紙ではなく、安価な厚紙を選んだ。署名を入れるためだけに高い羊皮紙を使うのは、前世の癖から言って許せない。

──稟議書は中身で通すもの。装丁(そうてい)で通すものじゃない。

事務官長が、その三枚を恭(うやうや)しく執務机へ運んでいくのを、ロザリンドは自分の席から眺めていた。

ルーカスは、提案書を受け取ると、片手で執務机の上に広げた。

一枚目。

二枚目。

三枚目。

ページをめくる音だけが、執務室に響(ひび)く。

事務官長が、ロザリンドのそばで石像(せきぞう)のように立っていた。横顔が、汗ばんで見える。

──そんなに緊張する案件かしら。

ロザリンドは椅子の背に体重を預けて、ルーカスの読書速度を測っていた。

一枚あたり、おおむね四十秒。視線の往復から推測(すいそく)するに、節を飛ばしていない。要点だけ拾う読み方ではなく、条文(じょうぶん)を頭から舐(な)めている。

――優秀な決裁者だ。内心、メモを取った。

──三枚の下敷(したじ)きには、父が三年かけて揃(そろ)えてくれた、あの羊皮紙の束があった。

大公国側の、ここ五年の貿易収支と、主要貴族の名簿。出立(しゅったつ)前夜に書斎で受け取って、馬車の中で読み始め、着任までに粗筋(あらすじ)は頭に入れていた。

(お父様の三年分が、ちょうど提案書三枚に畳(たた)まれたわ)

書斎の窓から見送ったはずの父に、ロザリンドは、心の中で一度だけ、令嬢の礼を返した。

ロザリンドの提案は、煎(せん)じ詰めれば三点だった。

ひとつ。他国──中立国(ちゅうりつこく)ポルトを筆頭(ひっとう)に、南海諸国(なんかいしょこく)、東部商業同盟(とうぶしょうぎょうどうめい)──と、相互(そうご)に関税を引き下げる通商協定を新規に結ぶ。鉄鉱・銀鉱・毛織物の三品目を、祖国一国の独占から、複数国の競争市場(きょうそうしじょう)に開く。これだけで、祖国が事実上享受してきた独占価格は、競争原理によって、自動的に崩れる。条約を破棄(はき)するのではない。そもそも、買い手が祖国を選ばなくなる。法的にはどこからも文句が言えない設計だ。

ふたつ。鉱物・繊維の調達ルートを、祖国経由の陸路一本から、ポルト経由の海路を主軸とする複数ルートへ多元化(たげんか)する。海賊・港湾事情・季節要因のリスクを分散できるよう、最低三ルートを並列で運用する。

みっつ。祖国産の鉄鉱・銀鉱・毛織物への大公国側の輸入関税を、現行水準から段階的(だんかいてき)に引き上げる。祖国経由の宰相府十パーセント手数料は、手をつけない。──直接交渉(ちょくせつこうしょう)で廃止させるには、まず祖国に「廃止してでも売りに来たい」と言わせる必要がある。そのための圧力(あつりょく)を、関税で作る。

三枚目の最後の行を読み終えたところで、ルーカスは顔を上げた。

「で、君はこれをいつから始める?」

ロザリンドはわずかに首を傾げた。

反対意見でも、修正指示でも、検討委員会への差し戻しでもない。着手日だけを訊かれた。

「条文整備(じょうぶんせいび)に七日、布告(ふこく)と通知に三日、計十日でございます」

「わかった」

ルーカスは、机の端の羽根ペンを取り、一枚目の右下に、署名と決裁印(けっさいいん)を押した。

二枚目、三枚目も、同じ動作で押す。

所要時間、概算(がいさん)で二分。

事務官長の喉が、ごく小さく鳴った。

ロザリンドは、それを横目で見て、内心で短く感想を述べた。

──決裁速度、優秀。書類が机で寝ない職場って、こんなに気持ちいいんですわね。

ルーカスが、ペンを置く前に、一言だけ補足を加えた。

「ポルト経由の海路は、夏に海賊(かいぞく)が出る季節がある。護衛艦(ごえいかん)の手配は、私のほうでやる」

ロザリンドは、軽く頷いた。

「ありがとうございます。助かりますわ」

「君は、条文に集中しろ」

「承知いたしました」

そう返してから、ロザリンドは少しだけ、引っかかった。

護衛艦の手配は、本来、外務省(がいむしょう)と海軍局(かいぐんきょく)の合議事項(ごうぎじこう)。大公自らが「私のほうでやる」と言うレベルの案件ではない。

──海賊案件、つまり危険度(きけんど)が高い。閣下は損失最小化のために自分で動く判断をした。合理的だ。

ロザリンドの処理は、そこで終わった。

事務官長は、ロザリンドの背後で、もう一度、喉を鳴らした。

──閣下が、ご自分から海軍局の領域(りょういき)に手を伸ばされるのは、初めてのことでございますよ、ロザリンド様。

口には出せない。

決裁を終えたルーカスは、立ち上がった。

執務室の扉に向かいながら、ロザリンドの机のそばで、一度だけ歩(ほ)を止めた。

ロザリンドは、もう次の作業に入っていた。布告文(ふこくぶん)の下書き用紙を引き寄せ、羽根ペンを握り直したところだった。

ルーカスは、その横顔を、一拍だけ見た。

それから、扉のほうへ視線を戻して、短く言った。

「……いい仕事だ」

ロザリンドは、ペン先を止めて、顔を上げた。

「恐(おそ)れ入ります」

それだけ返して、すぐにまた手元に視線を落とした。

ルーカスは、それ以上何も言わずに、執務室を出ていった。

扉が閉まる。

事務官長が、ようやく息を吐き出すのが、聞こえた。

ロザリンドは、布告文の最初の一行を書き始めた。

筆を運びながら、頭の片隅で、今しがたの「いい仕事だ」を反芻(はんすう)していた。

業務評価(ぎょうむひょうか)のフィードバックを、その場で短く渡してくる上司。優秀だ。文句のつけようがない。

前世だったら──と、考えかけて、すぐにやめた。

前世の話は、業務時間中にはしないと決めている。

ただ、ひとつだけ。

田中律子は、十年勤めた商社(しょうしゃ)で、「いい仕事だ」と直接言われたことが一度もなかった。

成果物(せいかぶつ)は何度も上に吸い上げられ、誰か別の人間の名前で稟議(りんぎ)が通っていく。本人の机には、新しい依頼書(いらいしょ)だけが積まれていった。

ロザリンドは、布告文の二行目に取りかかった。

筆が、いつもより少しだけ、軽い気がした。

その日の夕方、事務官長がおずおずと近づいてきて、小声で報告を上げた。

「ロザリンド様。商人組合(しょうにんくみあい)のほうから、すでに問い合わせが三件、入っております。ポルト経由の新ルートについて、関税引き下げの詳細(しょうさい)を早期に開示してほしい、と」

「布告の前ですわね」

「はい。閣下の決裁印が押された、という話が、もう市場のほうに漏れているようでして」

事務官長は、申し訳なさそうに頭を下げた。

ロザリンドは、軽く笑った。

「速い情報網(じょうほうもう)ですわね。結構ですわ。正式な布告日までは詳細は答えない、ただし、ポルト経由は確定だ、と返してください。商人たちは前倒しで船を押さえたいでしょうから、それだけで動けます」

「かしこまりました」

事務官長は、頭を下げて、執務室を出ていった。

ひとり残ったロザリンドは、窓辺に立った。

大公国の都(みやこ)の、薄暮(はくぼ)の街並み。

明日には、ポルトに向かう最初の早馬が出る。十日後には、新ルートの最初の船が動き出す。

──祖国の通関収入(つうかんしゅうにゅう)は、来月の決算(けっさん)で、おそらく四割近く落ちる。

ロザリンドは、その数字を、口に出さずに反芻した。

罪悪感は、なかった。

彼女は、祖国を傾けに来たのではない。大公国の利益を最大化する仕事を、頼まれた通りにやっただけだ。条約の穴を塞(ふさ)ぎ、商品の流れを再設計(さいせっけい)し、決裁ラインに巣食う貴族(きぞく)たちの中抜(なかぬ)きを切り落とした。

それで祖国が困るのなら、困るほうの設計が悪い。

ロザリンドは窓辺を離れて、机に戻った。

布告文の三行目を書き始めようとして、ふと、ルーカスが置いていった「いい仕事だ」の五文字が、また頭の隅をかすめた。

ペン先が、紙の上で一瞬だけ止まった。

──まあ、悪くないですわね。

そう短く独白して、彼女はまた、書き始めた。

布告の日まで、あと十日。

──翌週、執務机の上には、革紐(かわひも)で束ねた三十二通の礼状が積まれることになる。

一通残らず、宛名は「ロザリンド・エイベル」。

田中律子が、十年で一通ももらえなかったものが。

第13話 対外通商の再設計

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『王妃という名の社畜2.0、お断りします』は、前世を思い出した悪役令嬢が、自分の人生を取り戻す物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。