第22話 022

秘密の朝、見つけてもらえる

目を開けて、ロザリンドはしばらく天井のはりを数えた。

窓の外で、鳥が鳴いている。

朝の光が、ベッドの足元に薄く差している。

──身体が、軽い。

そのことに気づくのに、たっぷり三呼吸かかった。


田中律子の頃。

経理部の机に突っ伏して仮眠かみんを取り、目が覚めるたび、首と肩と腰が同じ角度で固まっていた。

三徹さんてつ明けの土曜の朝に、ようやく自分のベッドに辿たどり着いても、まぶたの裏ではずっと数字が走っていた。

──目が覚めても、疲れだけが残っている朝。

それが、二十八年分にじゅうはちねんぶんの朝だった。

今、ロザリンドのベッドの周りには、何もなかった。

書類も、未処理の試算表も、明け方まで点いていた灯りののこもない。

ただ、よく眠れた身体が、ひとつ。

ロザリンドは上体を起こし、自分の指を一度握って開いた。

(あら)

(……指先まで、ちゃんと暖かい)

前世では、ついぞ味わわなかった感覚だった。


身支度を済ませて、執務室の扉を押し開ける。

机の上には、いつものものが置かれていた。

白い紙の小さな包み。湯気の立つ紅茶のカップ。決裁印つきで戻された昨夜の業務報告書。余白に、見慣れた筆跡で短く一行。

「無理をしないように」

ロザリンドはドアを後ろ手に閉めて、しばらく、机の前に立っていた。

椅子を引いて、座る。

紅茶のカップに、両手を添えた。

(温度が、ちょうどいい)

(──ちょうどいい、ということは)

ロザリンドは指先で、カップの側面をなぞった。

朝、彼女がこの部屋に入る時間に合わせて、誰かが

冷めたポットを朝一番に運び込んだだけでは、この温度にはならない。

湯を沸かし直し、らしの時間を計り、ちょうどよく整えてから、ここに置かれている。

それを、毎朝。

(……事務官の業務、と、思っていた)

(けれど)

業務分掌ぎょうむぶんしょうとしては、説明がつかなかった。


ロザリンドは焼き菓子の包みを開いた。

紙が、昨日とは違う、新しいものに替えられていた。

職業病で、つい指が止まる。包装紙ほうそうしの質、折り方、留め方──同じ工房、同じ職人。けれど紙だけが、毎朝、新しい。

(……毎朝、買い直されている)

(私が、食べきれずに残してしまった日にも)

(翌朝には、また、新しいものが、置かれている)

ロザリンドは焼き菓子を一つつまみ、口に運んだ。

甘い。

前世から続く癖で、緊張すると、無意識むいしきに焼き菓子を握ってしまう。今朝は、緊張していないはずなのに、もう片方の手が、勝手に二つ目を握っていた。


紅茶を口に含む。

業務報告書の余白の、短い一行に、目を落とす。

無理をしないように。

ロザリンドは、しばらく、動かなかった。

──こんなふうに気にかけてくれる人が、前世にいただろうか。

ふっと、そう思った。

カップを置く音すら、立てなかった。

いなかった。

一人もいなかった。

残業の灯りを最後まで点けていた経理部で、誰かが温かい飲み物を置いてくれたことはなかった。

倒れる前に「無理をしないで」と書き込まれた書類を、田中律子は、一度も、受け取ったことがなかった。

田中律子は、たぶん、ずっと、それを欲しがっていた。

「いつか誰かに見つけてもらえるかもしれない」と、淡く、ただ、思っていただけで。

結局、誰にもつけてもらえないまま、机に突っ伏したまま、終わった。


(──律子)

ロザリンドは、心の中で、短く呼びかけた。

普段、出さない名前だった。

(今、誰かが)

(あなたのことを、気にかけているわよ)

紅茶は、まだ温かかった。

焼き菓子の紙は、新しいものに替えられていた。

業務報告書の余白の一行は、ロザリンドが昨夜どこまで頑張ったかを、誰かが最後まで読んだ証拠だった。

ロザリンドは、両手のひらの中で、カップの温度を確かめた。

頬には、何も流れなかった。

ただ、息を一つ、ゆっくり吐いただけだった。


扉の向こうで、廊下を歩く靴音がした。

規則的で、迷いのない歩幅ほはば。いつもより、半刻はんとき早い時刻の、その足音。

ロザリンドの手が、ふと止まる。

(──閣下)

(今朝も、もう、お出ましなのね)

業務、と処理しかけて、できなかった。

執務開始の鐘は、まだ鳴っていない。

足音は、彼女の執務室の前で、ほんの一拍いっぱく、止まった。

それから、何事もなかったように、自分の執務室のほうへ通り過ぎていった。

ロザリンドはカップを両手で包み直し、扉のほうを、長く見ていた。

(……閣下)

呼びかけてみて、声には出さない。

(あなたが、ですか)

問いの形にすらならない、ただの、確認だった。


執務開始のかねが、城の上から降ってきた。

ロザリンドは紅茶を飲み干し、焼き菓子の包みを丁寧に閉じて、引き出しの一番手前にしまった。

書類を広げる。

貨幣改革の試行が、走り出している。

今日も、決裁を待つ稟議りんぎが机の端まで届き、事務官たちが列を作るだろう。

閣下が「今日はもう上がれ」と短く告げる時間まで、きっと、瞬く間だ。

ロザリンドはペンを取り、一行目に日付を書いた。

筆先が、いつもより少しだけ、軽かった。

(律子)

もう一度だけ、心の中で呼びかけた。

(今日も、頑張れそうよ)


廊下では、書記官のオズワルドが、若い侍従に小声で確認していた。

「……閣下、今朝も、半刻早かったぞ」

「は、はい。ご自分で、焼き菓子の包みと、紅茶のポットを、確認なさってから」

「今日は、紙を取り替えていらしたか」

「……新しい包装紙を、ご自分の手で」

オズワルドは、深く、長い溜息ためいきを吐いた。

侍従の顔を、しばらく見ていた。

「あれはな」

「は、はい」

「……は?」

「いや、独り言だ」

オズワルドは書類の束を抱え直して、廊下の角を曲がっていった。

侍従は、しばらく、その背中を見送っていた。

「三年分」という言葉が、どこからどこまでを指すのか、若い彼にはまだ、よくわからなかった。

ただ、ロザリンドの執務室の扉の向こうから、ペンを走らせる規則正しい音が、いつもより、ほんの少しだけ、軽やかに聞こえてきていた。

第22話 秘密の朝、見つけてもらえる

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『王妃という名の社畜2.0、お断りします』は、前世を思い出した悪役令嬢が、自分の人生を取り戻す物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。