第47話 047

言いかけた言葉

「明日の午後を空ける」──執務室で、あの人は短くそう告げた。

氷の大公たいこうが、半日の執務しつむ予定を空けた。それだけなら、いつものように予定表を繰って「承知しました」で済む話だ。上役の都合に振り回されて眠れなくなることなど、本来、何ひとつない。

なのに、その夜は、寝つけなかった。

寝不足は判断力をにぶらせる。睡眠は最優先の労務管理である──と、ロザリンドは三度、自分に言い聞かせ、三度とも、目を開けた。

ひとつは、紙片のせいだ。

執務室で受け取った一枚を、寝間着ねまきの胸元から取り出してみる。

短い一行。何度読んでも、書いてある意味は同じ。なのに、その裏に、別の意味が一枚、折り畳まれている気がして、仕方がない。

──気のせい。寝る。それが顧問こもんの責務。

紙片をまくらの下に押し込んで、目を閉じた。

……閉じたまま、また、開けた。

もうひとつは──あの大公が、生まれて初めて、執務を空けたという、その一点だった。

仕事に隙のない人が。誰の都合にも予定を動かさない人が。よりにもよって、自分ひとりのために、半日を。

あの人、今日、何かを言おうとしていた。言いかけて、飲み込んだ。あの口の動きを、わたしは確かに見た。

ぱさり、と、誰かが心臓しんぞうの上に紙を一枚置いたみたいな感覚があって、それは、朝まで取れなかった。

雪は、まだ降っている。


翌朝。

執務室の扉を開けると、いつものように、机の端に紅茶と焼き菓子が置かれていた。

書き添えはない。

ロザリンドは少しだけ、肩の力が抜けた。

──よかった。普通の朝だわ。

そう思ったのも束の間。

「ロザリンド殿」

入ってきたのは、ルーカスではなく、側近のディーター卿だった。寡黙なけん達人たつじんとして知られる男が、めずらしく扉のところで一拍止まり、咳払いを一つ落とす。

「閣下から伝言です」

「はい」

「『今日は、帳簿ちょうぼも、ペンも、要らない』。閣下からは、それだけです」

ロザリンドはペンを取りかけた手を止めた。

「……会議、ではないのですね」

それは問いの形をしていたが、半分は、自分への確認だった。昨夜から胸の上に残っている紙片の重みが、答えを先に知っている気がした。

「会議では、ありません」

「視察でも、使節しせつ対応でも、ない」

「違います」

ディーター卿は、首を横に振った。それ以上の説明はなく、ただ、ほんの少しだけ、ロザリンドから視線をらした。

仕えて長い剣の達人が、こんな顔をする閣下を、これまで一度も見たことがない──その戸惑とまどいが、男の肩のあたりに、静かに乗っていた。

ロザリンドは、しばし、自分のペン先を見つめる。

──業務でないのに、執務時間を空ける──?

数秒で、ロザリンドは一つの結論に着地した。業務ではない、上司との、一対一の時間──ああ、なるほど。今後のキャリアについての、面談だわ。顧問こもん契約の更新か、この先の処遇しょぐうの、相談か。

「……今後のキャリアについての、相談会、ということですわね」

ディーター卿は、肯定も否定も、しなかった。

ディーター卿の背中が、わずかに、固まった気がした。

ロザリンドは、気づかない。


午後。

ルーカスは、執務室にいなかった。

代わりに、ディーター卿に案内されたのは、城の東棟とうとうの奥──ロザリンドがまだ一度も入ったことのない回廊だった。天井が高く、窓に薄い氷が張っている。冬の光が、大理石だいりせきの床に長い影を落としていた。

ロザリンドは靴音を意識して、歩幅を一定に保った。

──業務管理上、未踏区画への立ち入りには、事前の申請が必要だったはず──。

考えかけて、やめた。今日の頭は、そういう順序で動いてくれない。

廊下の突き当たりに、ひとつの扉が半開きになっている。

ディーター卿は扉の手前で立ち止まり、深く一礼した。

「こちらでお待ちです」

それきり、彼は来た道を戻っていった。

中から、薪が爆ぜる小さな音だけが、聞こえてくる。

息を整えて、ノブに手をかけた。


部屋は、思っていたよりずっと、小さかった。書架しょかと、机と、暖炉と、椅子が二脚。

そして、窓辺に立ったルーカスがいた。

公務の正装ではなく、簡素かんそな黒のシャツに上着を羽織はおっただけの姿。普段の彼が肩から下げている剣帯けんたいも、今日はない。

ロザリンドが入ってきたのに気づいて、彼は窓から目を上げた。

「来てくれたか」

「ご用件は」

ルーカスは少し笑ったように見えた。

「結論を最初に聞くところが、君らしいな」

ロザリンドは扉のところに立ったまま、わずかに首を傾げる。

「閣下、業務時間外の呼び出しは契約上、業務の目的を明示めいじしていただく必要が」

「ああ」

ルーカスは頷いて、暖炉の前の椅子のひとつを示した。

「座ってくれ。──業務ではない」

ロザリンドは、その「業務ではない」の四音を、口の中で繰り返した。

──……業務ではない、と、明言された。

労務管理ではない。会議ではない。視察ではない。

──では、これは……やはり、キャリアの、相談会? いえ。キャリアの相談なら、それもまた立派な「業務」のうち。なのに彼は、はっきり「業務ではない」と言った。

頭の中の社畜しゃちくOL田中律子たなかりつこが、ひさしぶりに、引き出しの中に該当ファイルが見つからない顔をした。

「……閣下」

「ルーカスでいい。今日は」

「は」

今日は

二度目の「今日は」が、ほんの少しだけ、低かった。

ロザリンドは、ゆっくりと、椅子に腰を下ろした。

「……ルーカス様」

呼び方を一段下げると、彼の肩の線が、ほんのわずか、ゆるんだのが見えた。

それから、彼は暖炉のほうに目を移した。

火が、ぱちりと爆ぜる。

「君がここへ来る、3年前の話を、しても構わないか」

──え、と、ロザリンドは思った。

3年前。アルバートの王太子おうたいし主催のパーティ。社交会場しゃこうかいじょうの隅、誰にも話しかけられず、壁際で経済書を読んでいた、自分。

ぼんやりとした記憶の一場面が、ふと、頭の隅をかすめる。

そういえば、あの時、誰かが、隣に来た──?

ルーカスは、ロザリンドの方を見ずに、暖炉の火を見つめたまま、続ける。

「長くなる」

「……はい」

「そして、たぶん、君は驚く」

ロザリンドは、膝の上で、両手を、そっと組み合わせた。

胸元の寝間着に──いや、ドレスに、昨夜の紙片はもう、入っていない。けれど、胸の奥のいちばん深いところを、誰かの指先ゆびさきでそっと押されているような感触かんしょくだけが、まだ、そこに残っていた。

雪が、窓の向こうで、しんしんと降り続けている。

ルーカスが、ゆっくりと、息を吸った。

ほんとうは昨夜、彼が言いかけて飲み込んだ言葉があった。その影だけが、まだ、暖炉のそばに置き去りにされている。

仮面かめんが、外れる音がした。

第47話 言いかけた言葉

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『王妃という名の社畜2.0、お断りします』は、前世を思い出した悪役令嬢が、自分の人生を取り戻す物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。