終電の、いちばん端の車両だった。
田中律子は、コンビニの袋を膝に抱えて、窓に頭をあずけていた。袋のなかで、半分つぶれかけた、おにぎりが、ひとつ。今日の夕飯で、たぶん明日の朝食だった。
二十八歳。中堅商社の、経理と総務。
朝、誰よりも早く数字を合わせ、夜、誰よりも遅く帳簿を閉じる。それでも、フルネームで呼ばれたのは、入社式の名簿読み上げが最後だった気がする。あとはずっと、「経理の」「あの子」「お前」。
部屋に帰っても、明かりは点いていない。点けるのも、自分。
それでも、暗がりのなかから、ひとつだけ、迎えに来るものがいた。
足もとに、するりと身を寄せる、銀色の被毛。顔を上げたその瞳は、深い、青。女王さまみたいに気位が高いくせに、律子の前でだけ、ごろごろと喉を鳴らす猫。
「ただいま、ロージー」
この子だけは、律子を「経理の」とも「お前」とも呼ばなかった。律子のいない部屋を、ずっと、待っていてくれた。
その夜、律子は靴も脱ぎきらないまま、ベッドの端に倒れ込んだ。ロージーが、当たり前のように胸の上にのぼってきて、まるくなる。
「……ちょっとだけ」
横になるだけ、のつもりだった。あたたかい重みを、両手で抱きしめて。
気づくと、暖かかった。
見知らぬ、広い部屋だった。天井が高い。大きな窓の外で、雪が、音楽のように静かに降っている。暖炉の火。机の上に、湯気の立つ紅茶と、焼き菓子がひと皿。
こんな部屋、知らない。こんな安らぎ、知らない。
窓辺に、ひとりの女性が立っていた。
腰まで届く、銀の髪。振り返ったその瞳は、深い海の青。
律子は、思わず一歩、下がった。場違いだ、と最初に思った。こんな綺麗で、こんなに穏やかな人の前に、終電帰りの自分が立っているなんて。
けれど、女性は、まっすぐに律子を見た。
逸らさずに。ちゃんと、目を合わせて。
誰も、こんなふうに自分を見たことはなかった、と律子は思った。
「……あなた、だれ」
声が、震えた。
女性は、少しだけ笑った。
「さあ。──あなたの、ずっと先の人、かもしれない」
律子は、自分でも驚くくらい、するりと、いちばん奥の問いを口にしていた。
夢だから、だったのかもしれない。
「私……ねえ、私、いつか、誰かに」
喉が、つかえる。
「……みつけて、もらえるのかな」
言ってしまってから、恥ずかしくなって、うつむいた。
そんなこと、現実では一度も、声に出したことはなかった。出しても、誰も聞いていなかったから。
女性は、ゆっくりと近づいてきた。そして、律子の冷たい手を、両手で包んだ。
温かかった。
「大丈夫」
静かな、けれど、揺るがない声だった。
「ちゃんと、見つけてもらえるわ」
律子の目の奥が、熱くなった。
「……ほんとに? 私、ずっと……名前でなんて、呼ばれたこと、なかった。『経理の』『お前』『あの子』……そうやって呼ばれて、そのまま、消えていくんだと思ってた」
「知ってる」
女性は、律子の手を、もう少し強く握った。
「全部、知ってる。──ねえ、律子」
名前を、呼ばれた。
「あなたのこと、いつか、ちゃんと見つけてくれる人がいる。あなたの価値や努力を、最初から、ぜんぶ分かってる人が。あなたを、道具じゃなく、あなたのまま、認めてくれる人が」
「……」
「あなたが、ずっと、誰にも触れてもらえなかったもの。ひとりで、抱えるしかなかったもの」
女性の声が、ほんの少しだけ、濡れた。
「──大丈夫。ちゃんと、叶うから」
そして、女性は、律子をそっと抱き寄せた。
律子は、もう、こらえられなかった。
腕のなかで、子どものように、泣いた。
長いあいだ、ずっと、誰かにそう言ってほしかった。たった、それだけだったのだ。
目が覚めると、部屋は、冷えていた。
天井の、見慣れた染み。点け忘れた電気。膝から落ちた、コンビニの袋。
夢だ、と分かった。
それでも──胸の上では、ロージーが、ちいさく寝息を立てていた。夢のなかのぬくもりと、いま胸にあるあたたかい重みの、どちらがどちらか、律子にはもう分からなかった。
手のひらの内側にも、まだ、ぬくもりの残響があった。
律子は、しばらく、その手をじっと見ていた。
それから、ほんの少しだけ、口角が上がった。理由は、自分でもよく分からなかった。
「……いってきます」
誰もいない部屋に、小さく言って、律子は立ち上がった。
その朝の通勤路は、いつもより、ほんの少しだけ、空が高かった。
──ちゃんと、見つけてもらえる。
見つけてもらえることを、知っている人みたいに、律子は歩いた。