第43話 043

古文書の徴

冬の朝、ヴェルナント大公国の書庫しょこの扉が、いつもより早い時間に開いた。

「閣下! ……いえ、エイベル様、おはようございます!」

文書官長ぶんしょかんちょうのオーウェンが、両手で抱えた革表紙の写本しゃほんを、執務机の上にどさりと置いた。乾いた羊皮紙の匂いが、紅茶の湯気と混ざる。

ロザリンドは関税表かんぜいひょうからゆっくり顔を上げ、まばたきを一回した。

「おはようございます。……オーウェン、髪が乱れていますわよ」

「は、はい、申し訳……いえ、それどころでは」

「落ち着いて。深呼吸。労働の前に呼吸ですわ」

オーウェンは大きく息を吸い、それから一気に吐いた。

しるしです。真聖女せいじょの徴でございます」

「……はい?」

ロザリンドの右手のペンが、書類の上で止まった。

王太子おうたいし土下座どげざも、ミリアのすがりつきも、まだ氷の上のちりのように残っている、その朝のことだった。


教会本院きょうかいほんいんが長年塩漬しおづけにしてきた写本でございます」

オーウェンは興奮を抑えきれず、写本を開きながら早口になっていた。

「真の聖女には、三つの徴が記されておるのです」

「三つ」

「第一に、月光げっこうに近い銀の髪」

「ええ」

「第二に、深海しんかいの青を宿す瞳」

「ええ」

「第三に、さくの刻にだけ反応する魔力波長まりょくはちょう。──この三つを満たした聖女は、有史でただ一人きり」

「ひとり」

初代しょだい聖女セラフィーナ。灯火ともしびの聖女、と。いまの魔導計器まどうけいきも、大陸を結ぶ通信塔つうしんとうも……あの御方が異郷いきょうの知をもって世に遺したと、本院の写本は伝えております。爾来、幾百年、該当者は、ただの一人も」

「で」

「今回、

「で、関税表の修正案は、まだ三枚残っておりますわよね」

オーウェンの口が、半開きのまま止まった。

ロザリンドは長い睫毛まつげをひとつ伏せて、関税表の数字に目を戻した。

──前世なら、終電しゅうでん前まで残業しないと片付けられない量だわ。

「あの、エイベル様」

「ええ」

「該当者、と申し上げました」

「ええ、聞きましたわ」

「該当者は、その……」

助手の若い文書官が、卒倒そっとうしそうな顔で写本のページを示す。

オーウェンが咳払いし、震える指で一枚の細密画さいみつがを写本の脇に並べた。

ロザリンドの肖像画しょうぞうがだった。先月、貨幣改革の功績として宮廷画家きゅうていがかが描いた一枚。

銀の髪。青の瞳。

文書官長は、もう声が出ないらしかった。

「……」

ロザリンドはしばらく、写本の文と肖像を見比べていた。

それから、紅茶を一口飲んで、言った。

「この写本、もとの棚へ。湿気で傷みますから、奥ではなく手前の段に」

「は」

オーウェンが机に額をぶつけそうな勢いで頭を下げた。

「閣下にだけは、お先に、お伝えしておくべきかと存じまして!」

「閣下ではなく、ですわ、わたくし」

「……は、はい!」

「では、教会本院に正式な照会しょうかいを。手続きは通常通り。それから、お疲れさまでした。文書官団に菓子を差し入れますわ。書庫が冷えるでしょう」

文書官たちは、揃って深々と頭を下げてから、写本を抱えて退室していった。

扉が閉まる。

ロザリンドはペンを取り直して、関税表の三枚目の修正案に取りかかった。

数秒後、執務室の奥の扉が、音もなく開いた。


「……ロー、いや、ロザリンド」

言いかけた音を、ルーカスは途中で飲み込んだ。隣室で控えていた彼が、扉を押して入ってきた。報告は、最初から聞こえていたらしい。

ロザリンドは顔を上げず、ペン先を動かしたまま答えた。

「閣下。どこから聞いていらっしゃいましたの」

「月光に近い銀の髪、のあたりから」

「最初からですわね」

「ああ」

ルーカスは机の脇まで来て、写本の表紙に指を一度だけ触れた。

薄い青の瞳の奥で、何かが、わずかにほぐれている。

「本院から、使者が来るぞ」

「ええ」

「いいのか」

祭壇さいだんに飾られて、ありがたがられる趣味はございませんの。聖女の座など――そうですわね、関税表の三枚目ほどの値打ちもございませんわ」

「……ふ」

ルーカスが、わずかに口角を上げた。

おおやけの場では誰も見たことのない、彼の素の微笑だった。

ロザリンドは目線を上げない。気づいていない。

机の上に、紅茶のおかわりと、焼き菓子が一皿、いつのまにか足されていた。

ペン先がふと止まる。

「……あら。これ、いつから」

「さっき」

「あら」

ロザリンドは焼き菓子をひとつ摘んで、口に入れた。

冬の朝の、いつもの味だった。


窓の外で、雪が、本格的に降り始めていた。

王太子の土下座も、ミリアの縋りも、もう遠い。

ただ、雪の向こうから、もうひとつ、何かが、こちらへ歩いて来ようとしていた。

教会本院の、銀色の使節が。

ロザリンドは関税表の四枚目を、引き出しから取り出した。

「閣下。午後の貿易協定の修正案、最終確認、よろしいですか」

「ああ」

「では、続けますわ」

ルーカスは何も言わず、彼女の隣の椅子に腰を下ろした。

「ロザリンド」

「はい」

「明日、君は世界の真ん中に立たされる」

「左様で」

ロザリンドは関税表の四枚目に、几帳面きちょうめんな丸印をひとつ書き加えた。

「世界の真ん中」を、彼女は業務上の比喩ひゆとしか受け取っていない。

ルーカスは、それ以上は言わなかった。

雪は、まだ降っている。

第43話 古文書の徴

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『王妃という名の社畜2.0、お断りします』は、前世を思い出した悪役令嬢が、自分の人生を取り戻す物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。