第44話 044

銀の髪、青の瞳

「徴の照合儀式しょうごうぎしき、これより執り行います」

進行役の枢機卿が、低く宣言した。

謁見の間の空気が、いつもより一段、冷えている。

ロザリンドは、その正面に立っていた。

教会本院から派遣された高位聖職者団こういせいしょくしゃだん――枢機卿すうききょう三名と神官しんかん十二名。普段は大公国の城に足を踏み入れることすらない人々が、磨き抜かれた床の上に整然と並んでいる。

普段の実務ドレスではなく、儀礼ぎれい用の銀糸の上衣じょうい。装飾は最小限。腰まで届く銀髪は、教会の手順書てじゅんしょの指定どおり、わずに下ろされている。

──この時間で、関税表が三枚は処理できたわね。

心の中で短く息を吐いた。


儀式は、淡々と進んだ。

「一の徴――銀の月光に近い髪」

枢機卿の合図で、神官の一人が銀のランプを掲げる。月光に近い波長だけを抽出する仕掛けらしい。

鏡越しの光が、ロザリンドの髪を通った。

会場が息を呑む。光が、絹のような銀の輝きとなって反射した。

「……一致」

「二の徴――深海の青の瞳」

別の神官が、藍色あいいろのガラス玉を目の高さに掲げる。覗き込む。

「……一致」

「三の徴――波長の照応しょうおう

最後の検査は、神殿石しんでんせきと呼ばれる丸い結晶を、ロザリンドのてのひらに乗せるだけだった。

石は、長く沈黙した。

「……不発か」誰かが、ほっとしたように呟きかけた。

──次の瞬間、石が、内側から青白く焼けるように発光した。

光が、掌から腕の芯へ逆流ぎゃくりゅうする。

瞬間、ロザリンドの視界の端が、すっと暗くなった。指先から、力が抜けていく。徹夜明てつやあけの、あの重さによく似ていた。

──なに、これ……。


光のなかで、声がした。

自分の声に、よく似た、けれど自分ではない声。とても遠い──終電と、コンビニの袋の、あの夜の側から。

光の向こうに、ひとりの女がいた。疲れ切った肩。フルネームで呼ばれることすら忘れた目をして、それでも、こちらをまっすぐに見ている。

知っている、とロザリンドは思った。誰よりもよく、知っている女だ。

『……あなた、誰』

女が、かすれた声で問うた。

答えが、勝手に唇からこぼれた。あなたよ、と。あなたの、続きを生きている女。

女は、ぽつり、と語り始めた。

『……今日もね、誰も名前、呼んでくれなかった。「経理の人」って。それだけ』

『部屋、帰っても、真っ暗なの。電気つける気力も、なくて』

ロザリンドは、何も言えなかった。終電の窓に頭をあずけて、声にすることすらできなかった、あの夜の重さを、知っていたから。

女は、喉をつかえさせながら、いちばん奥の問いを差し出してきた。

『……ねえ。いつか、誰かに』

『──みつけて、もらえるのかな』

少しの間、会話をした。その後、社畜時代の徹夜明けのような疲労がどっと押し寄せ、石の光がふっと細った。声は途切れ、掌には、ずしりと疲労だけが残った。

──いまのは、何だったの。

問い直そうとして、けれど手がかりは、指のあいだからこぼれていく。

──……あとで、考えればいいわ。

合理的に、棚へ上げる。今は、儀式の最中だ。


検査盤けんさばんの針が振り切れる音。神官の一人が、機器を取り落として両膝をついた。

「……計器けいきの故障では」「いや、波長記録は正常です」「正常で、この出力です」

「――三つ、全て、一致しました」

進行役の枢機卿が、ゆっくりとひざまずいた。

「真聖女ロザリンド様」

会場の貴族たち、各国大使、文書官、侍従――その全員が、息を止めて、ロザリンドを見た。

ロザリンドは、神殿石を返した。

その動作があまりに事務的で、控えの書記官が小さく咳払いした。

――ふうん。前のときは、何もなかったのにね。

幼い頃、一度だけ、この石に触れさせられたことがある。エイベル家の娘なら念のため、と。石は、うんともすんとも言わなかった。

公女こうじょは聖女にあらず」。神官はそう書いて、それきりだった。

──律子りつこの記憶が、よみがえったから……なのかしら。

確かなことは、何も。わからないものは、わからないままでいい。


「真聖女様」

枢機卿が、跪いたまま顔を上げる。

「我ら教会本院、深くお詫び申し上げます。真の徴を見落とし、偽聖女にせせいじょほうじてきたことは、教会の歴史的失態にございます」

ロザリンドは、何も答えなかった。

枢機卿は続けた。声が、わずかに震えていた。

「つきましては、真聖女様のお力をもって、長らく揺らいでまいりました教会の威信いしんを――いえ、大陸の宗教秩序しゅうきょうちつじょそのものを、お支えいただきたく――」

かつて「聖女にあらず」と退けた娘を、石が光った途端に祭壇へかつぎ上げようとする――その魂胆が、言葉の端から滲んだ瞬間だった。

会場の空気が、ぴくり、と動いた。

ロザリンドは動かなかった。けれど、彼女の右斜め後ろ――半歩下がった位置に立っていた男が、枢機卿の言葉を断ち切るように、一歩、前に出た。

足音は鳴らない。ただ、銀糸の刺繍がほどこされた黒の正装が、ロザリンドと枢機卿のあいだに、滑り込む。

ヴェルナント大公ルーカス。

「聖女の座をどうするかは、彼女に決めさせろ。先を続けるな」

短く、低く、しかし有無を言わせぬ声だった。

枢機卿が口を閉じる。神官団が、自分たちが今、何の前にいるのかを思い出したような顔になった。

貴族たちが、扇の陰で顔を見合わせる。

「氷の大公が、あの本院に歯向かった」「真聖女をかばって――」――ささやきが、ロザリンドを除く全員の頭を通り抜けていく。

ロザリンドは、ルーカスのほうを横目で見上げた。

――お断りの段取りを、整えてくださったのかしら。

そう、業務上の配慮として受け取って、彼女は静かに頷いた。


ルーカスは、振り返りもせず、ただロザリンドの一歩前で枢機卿団を見ている。

ロザリンドはペンを持っていないことに今さら気づき、軽く指先を握り直した。

進行役の枢機卿に向き直る。

枢機卿猊下すうききょうげいか

「は、はい」

懇談こんだんの続きは、別室でうかがいますわ」

公開で続ける案件ではない、と儀礼の体裁ていさいを整える一言。

声音は終始一定だった。跪く相手にも、頭を下げる相手にも、彼女の声は揺れない。

枢機卿が立ち上がり、神官団が二礼して退出していく。

会場のざわめきが、ようやく息を吐くようにほどけた。

各国大使が、書記官に小声で何かを口述こうじゅつしている。

「真聖女がヴェルナント大公国にいる」――この一文が、明日の朝までに大陸の主要都市すべてに飛ぶ。もう確定していた。


謁見の間を出る短い廊下。

ルーカスは、ロザリンドの半歩斜め後ろを歩いていた。儀式の隊列たいれつとしては正しい位置。

ふと、歩幅がわずかに緩み、彼女の隣に並んだ。

「疲れたか」

「……ええ、正直なところ。座っていただけですのに、妙ですわね」

徹夜明けにも似た、芯の重い疲れ。心当たりは、あの石が光った一瞬しかない。けれど、それを口にするすべを、彼女はまだ持たなかった。

ルーカスは、彼女の右の掌に、一瞬だけ視線を落とした。神殿石を載せていた、その手に。

──あの石が光った刹那、半歩後ろから、彼女の指先から血の気が引くのを、彼は見ていた。

「あの石のせいか」

ロザリンドは、少し言葉に詰まった。

「……さあ。わたくしにも、わかりませんの」

わからないものは、わからないまま。いまは、そう答えるしかなかった。

ルーカスは、それ以上は訊かなかった。ただ、覚えておくことにした。

「次の懇談は、東の小謁見室にした。窓が小さい」

ロザリンドは、少し間を置いた。

業務上の配慮として受け取り直し、軽く頷く。

「ご配慮、感謝いたしますわ」

「……ああ」

ルーカスが、視線を前に戻す。

口角がわずかに上がったのを、隣を歩く侍従だけが見て、すぐ目をらした。


東の小謁見室。

枢機卿団が、改めて着席する。窓は小さく、声が外へ漏れるつくりではない。

「真聖女様。改めまして――真聖女としての、ご叙任じょにんの儀につき」

ロザリンドは、紅茶のカップを、テーブルの定位置に戻した。

「ご懇談の趣旨しゅしは、承りました」

カップが、わずかな音もなく、皿に着地する。

「お返事は、明日。書面にてお渡しいたしますわ」

「真聖女様、これは大陸の安寧あんねいに関わる――」

「だからこそ、本日中にはまいりませんの」

微笑みすら浮かべて。

「労働には対価が伴います。口頭の言質げんちいたしませんの」

枢機卿団が、互いを見た。

ロザリンドの斜め後ろで、ルーカスが目を伏せている。口元の、ほんの少しの緩みを、誰も見ていない。


懇談が終わり、廊下に出てから、ルーカスがぽつりと言った。

「明日の朝、君の机に焼き菓子を置いておく」

「……儀式の続きでしょうか」

「いや。大陸じゅうが読む書面だ。万全の体制で臨むために、準備する」

そう言って、ルーカスは廊下を曲がっていった。

廊下の窓から、雪が見えた。

明日、書く返事の最初の一言を、ロザリンドはすでに頭の中で組み上げていた。

──たった、十文字。

焼き菓子を堪能してから書こう、と思った。彼女にとっては、その程度の返事でしかなかった。

第44話 銀の髪、青の瞳

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『王妃という名の社畜2.0、お断りします』は、前世を思い出した悪役令嬢が、自分の人生を取り戻す物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。