第45話 045

聖女? 興味ありませんわ

? 

──のちに大陸を一周することになるその一言は、雪の朝、ヴェルナント大公国の謁見の間で、極めて事務的に発せられた。

時刻を、三十秒ほど巻き戻す。


枢機卿すうききょうが、ひざまずいた。

深紅の祭服さいふくが、絨毯の上にゆっくりと沈み込む。

教会本院の最高位が、銀髪の経済顧問に頭をれていた。

「真聖女様」

その一語で、空気が止まった。

各国大使が息を呑む。文書官が筆を取り落とす。祖国アルバート王国の大使は、蒼白そうはくを通り越して紙のような色になっていた。

ロザリンドだけが、いつもの顔だった。

枢機卿が顔を上げる。年老いた瞳に、ありったけの祈りを込めて。

「真聖女様。どうか本院の聖座せいざにお就きになり、真聖女として教会をお導きください」

ロザリンドは、首をわずかに傾けた。

「聖座、と仰いますと」

「本院の頂、歴代の真聖女のみがお就きになった座にございます。かつてにせの聖女をほうじ、教会の威信いしんおとしめた失態は、真の聖女がその座にお就きになることでしかすすげませぬ。──揺らいだ大陸の宗教秩序しゅうきょうちつじょを、どうかお導きください。これは大陸全土の安寧あんねい、神の意志でございます」

「神の意志」

ロザリンドが、その四文字を口の中で転がした。

ルーカスの視線が、わずかに動く。

彼女の答えを邪魔する気はないらしく、半歩、後ろに引いた。

ロザリンドは微笑んだ。

社交界が「冷徹な悪役令嬢」と評した、あの微笑みで。

? 。私は大公国の経済顧問ですので」

静かに。しかし、はっきりと。

謁見の間に、衣擦きぬずれの音が広がる。各国大使が顔を見合わせ、祖国大使は立っていられず柱に手をついた。

枢機卿の唇が、震えた。

「……お、おたわむれを」

「あら、誤解させてしまったかしら」

ロザリンドは、手元の予定表に視線を落とす。

「整理いたしますわ」

「整理」

「ええ、業務上の整理です。三点」

ペンを取り、白紙の余白に、一、二、三、と番号を振る。書類をさばくときと同じ手つきだった。

「第一に──」

すっと、顔を上げる。

「雇用契約上、私はヴェルナント大公国の経済顧問でございます。教会は聖女を“認定にんてい”なさる権をお持ちでも、すでに大公国へ約定やくじょう済みの労働を“召し上げる”権までは、お持ちではございませんでしょう。──あいにく、私の手は、もうふさがっておりますの」

枢機卿が、束の間、言葉を探した。

聖女を認定する権はあれど、すでに他国へやくした労働を神の名で取り上げる条文じょうぶんは、教会の戒律にもない。隅で、祖国大使が深くうつむいた。

「第二に」

ロザリンドの声は、淡々としていた。

「聖女という称号しょうごうは、私の名前ではございません。私の名は、ロザリンド・エイベル。それで充分ですわ。──称号を増やしていただく必要は、ございませんの」

──律子りつこ。あなたの頃も、そうだったわね。「経理部の人」「総務の子」「あの新人」。あれは全部、

胸の奥で、誰かが頷いた気がした。

「第三に」

ロザリンドは、ペンの先を真っ直ぐ枢機卿に向けた。

「教会の威信も、大陸の宗教秩序の立て直しも、私の労働範囲外ろうどうはんいがいでございます。労働には対価が伴います。範囲外の業務は、お受けいたしかねますの。──以上、三点でございます」

謁見の間が、静まり返った。

枢機卿が、両手を組んだ。最後の手札を切る顔だった。

「しかし、真聖女様。これは──神の意志として……」

ロザリンドは、ペンを置いた。

そして、極めて、優雅に。

「神の意志は、契約書には書かれておりませんわ」

「……」

「わたくしが契約書にサインしたあの日、その相手は、ヴェルナント大公国でございました。──雇用主が神であらせられるなら、従いましたでしょうけれど。あいにく、神と契約を結んだ覚えは、ございませんの」

ふっと、微笑む。枢機卿の口が、ゆっくりと閉じた。

ロザリンドの後ろで、ルーカスが半歩、前に出る。

「話は終わりだ」

短く、低く。

「真聖女様の就任については、彼女自身が答えた。これ以上はない。──案内を」

侍従が即座に動く。枢機卿団が立ち上がり、礼を取り、退出していく。

祖国大使は、誰にも支えられぬまま、よろよろと最後に出ていった。

扉が閉まる。

謁見の間に残ったのは、ロザリンドとルーカス、それから記録係の文書官だけだった。

ロザリンドは、予定表の三つの番号を、ペンの背でとんとん、と叩いた。

「閣下。午後の関税表のお時間、押しておりませんか」

「……押している」

「では、すぐ執務室に戻りますわ」

ルーカスは、しばらく彼女を見ていた。

何か言いかけて、口を閉じる。

代わりに、自分のマントを持ち上げ、ロザリンドの肩に無造作むぞうさにかけた。

「謁見の間は冷える」

「あら。部下の体調管理まで、ありがとうございます。──寒さ管理は労務管理の一環、でしたものね」

「ああ。君が倒れでもしたら困る」

ルーカスの口角が、ほんの少しだけ、上がった気がした。

ロザリンドは気づかない。マントの重さを、ただ「上着の追加支給」として受け取り、執務室への扉に向かう。

歩きながら、ふと、内心で呟いた。

──今の私の名前は、何もないままじゃない。

──よ。

廊下の窓の外で、雪が、降り始めていた。

その夜、教会本院の魔導通信塔まどうつうしんとうから発せられた一報が、大陸中の貴族・商人・聖職者に同時刻で届くことになる──「真聖女、ヴェルナント大公国経済顧問の任をさず」と。

翻訳すれば、こうだ。

──「真聖女? もちろん、お断りします」

第45話 聖女? 興味ありませんわ

ページの先頭へ

BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『王妃という名の社畜2.0、お断りします』は、前世を思い出した悪役令嬢が、自分の人生を取り戻す物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。