第56話 056

未来の約束

「ロザリンド様が、お通りになりますわよ!」

朝の大通りに、子どもの声が跳ねた。

ロザリンドが視察用の馬車から降りると、街路樹のこずえに白い花輪はなわが揺れている。パン屋の軒先のきさきにも、仕立屋したてやの窓辺にも、果物商くだものしょうの店先にも、同じ花輪。妊娠を祝う大公国のならわしだという。

ただ、彼女が想定していた言葉とは、少しちがった。

「ロザリンド様、お体を大切に」

「ロージー様、無理なさらないでくださいね」

そして、馬車のそばまで駆けてきた花屋の主人が、頭を下げながら言った。

「世継ぎ様のご懐妊、誠におめでとうござ──」

その言葉を、隣のルーカスが短くさえぎった。

「順序が違う」

主人が、ぱっと顔を上げた。

ルーカスは、当然のように言い切った。

「祝うべきは、まずロザリンドだ。世継ぎの誕生を祝うのは、世継ぎが顔を出してからでいい。今は、産む人間を労え」

花屋の主人は一瞬きょとんとして、それから深々と頭を下げ直した。

「ロザリンド様、どうかご無事で」

ロザリンドは、わずかに眉を上げ、隣を見上げた。

──そういう文化が、もう、ある。

ロザリンドは前世の自分の声を、一瞬だけ思い出した。

「結婚はまだ?」「子供は?」「次は?」──仕事の合間に、誰かれ構わず投げつけられた質問。あれは、産む側の体を労る言葉ではなかった。

ここは、ちがう。

「……まあ、合理的ですわね」

つい、敬語が崩れかけたのを慌てて咳払いで隠す。ルーカスの口の端が、わずかに上がった。


執務室に戻ると、机の上に関税改定の最終確認さいしゅうかくにん書類が積まれていた。妊娠中期にんしんちゅうき。ロザリンドは羽根ペンを取り、いつもの速度で数字を追う。

「ロージー」

書類を覗き込んだルーカスが、低く言った。

「無理はするな」

「無理ではありませんわ。座って書いているだけです」

「……それを無理と言わない君が、いちばん心配だ」

ぼやいてから、彼は秘書官へ振り返り、短く告げた。

「ロージーがやりたいだけやればいい。彼女が止めたら、即引き取れ」

秘書官は深く頭を下げた。異論を挟む者は、この執務室に一人もいない。

その沈黙を、ロザリンドはペンの音越しに聞いた。覚書一冊にも、それは表れていた。午後に侍女頭が運んできた分厚い綴りの表紙に、ルーカスの筆跡が一行。

「気に入らなければ全部捨てていい。一からやり直す」

壁紙かべがみの色まで、ロザリンド様のご意思を最優先に──それが、閣下の唯一のご指示でございます」

ロザリンドは綴りを受け取り、ふっと笑いをこぼした。

労務管理の鬼ですわ、この方は。前世の上司に聞かせてやりたいくらい。


夕方、二人で窓辺に立った。

ルーカスは前置きもなく、こちらを向いた。

「ロージー」

「はい」

「君は母になっても、ロージーだ」

その一言だけだった。世継ぎ様の母君でも、大公妃殿下でもない。ただ、ロージー。

ロザリンドは、自分の中で何かが、とん、と静かに着地する音を聞いた。

「閣下」

「ルーカスでいい」

ロザリンドは、一度、口を閉じた。

──同じ台詞を、前にも聞いたことがある。あのときは、語尾に「今日は」と、期限きげんがついていた。

その「今日は」が、今日は、なかった。

「……期限の定めは、ないんですのね」

「ない」

契約でいえば、有期ゆうきから無期むきへの切り替えだった。田中律子たなかりつこが、ついに一度も手にできなかった種類の安心だった。

「……ルーカス様」

「うん」

「ありがとう、ございますわ」

短く、それだけ。

彼は満足げに頷いて、視線を窓の外に戻した。

そのまま、ふと付け足すように言う。

「君が望まないなら、何もしなくていい。後継こうけいのことも、君が決めていい」

ロザリンドは少し笑って、答えた。

雇用契約の時と同じ口調だった。

自分で決めて、自分でサインする。今度も、ちゃんと。


その夜、本棚の隅に、新しい巻が一冊、静かに加わった。背表紙せびょうしの表題は、まだ墨が乾いていない。

「ロザリンド大公妃の時代」

本人は、それを知らない。机の数字を追うことに忙しくて、史官が何を書いていようと、たぶん気にも留めない。


執務机の片隅に、紙が一枚、広げられたままになっている。

二人で書きかけた、子の名前の候補リスト。

ルーカスの字とロザリンドの字が、行ったり来たりで並んでいる。

だが、決まらない。

「生まれてから、顔を見て決めよう」とルーカスが言い、

「それまでに私の好み、ちゃんと伝えておきますわ」とロザリンドが返した。

リストはまだ長くなる。

あと、何度でも書き換えられる。

──そして、

窓の外で、白い花輪が夜風に揺れていた。

明日もきっと、街の誰かが、彼女の名前を先に呼ぶ。

第56話 未来の約束

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『王妃という名の社畜2.0、お断りします』は、前世を思い出した悪役令嬢が、自分の人生を取り戻す物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。