第50話 050

合理ヒロイン、結論を出す

「えーと……これ、結局のところ、私から行くのが筋ですよねぇ、契約的に」

夜明け前の執務室で、ロザリンドはぽつりとつぶやいてから、誰もいないのを確認して、ハッと口を閉じた。

机の上には、白紙が一枚。タイトルはすでに書いてある。

ヴェルナント大公たいこう・ルーカス殿との今後について

──前世の経理部で何百枚と起こした書式、そのまま。ただ、これから書く中身が、自分の心臓だった。


少し時を遡る。

暖炉の火はとうに落ち、窓の外は群青色ぐんじょういろ。雪をかぶった大公国たいこうこくの街並みが、薄明かりの底でしんと沈んでいる。誰もいない執務室は、いつもより少しだけ広く感じた。

机に視線を落とすと、昨夕さくゆう、自分の手の中で崩れた焼き菓子のくずが、白い紙の上にまだ薄く散っていた。侍女が片付けようとしたのを、ロザリンドが断ったのだ。

「自分で片付けますわ」

そう言ったきり、結局、屑は片付かないまま朝を迎えた。

──処理が、滞っている。

ロザリンドは小さく息をつき、椅子に腰を下ろした。

頭の中に、低い声が、まだ残っている。

生まれてきてから、ずっと、君だけを探してきた。

他の誰も、君を見ていなかった。それが、信じられなかった。

普段なら、感情の揺れは焼き菓子で抑え込む。足りなければ数字を書き出す。それでも足りなければ──そんな事態は、前世も今世も一度もなかった。

ロザリンドは新しい白紙を机の中央に置いた。羽根ペンを取り、インクをつける。

紙の上端に、自分の字で、こう書いた。

ヴェルナント大公・ルーカス殿との今後について

書き終えてから、少しだけ笑いそうになった。前世の経理部で稟議書を起こしていたときと、まったく同じ書式である。

──前世の癖は、転生しても抜けないらしいわね。

そう独白して、襟元えりもとを正す。


まず、事実認定。

一、ルーカス殿は六年前、王太子主催のパーティ会場で、壁際の令嬢に話しかけた。当該とうがい令嬢は現在の私と同一人物である。

二、ルーカス殿は私の前でのみ仮面を外す。公式の場では氷の表情を保ち、二人になるとごくわずかに口角と肩がほどける。

三、ルーカス殿は私の能力を恐れず採用し、業務量をひそかに調整し、焼き菓子を常備する。なお、過去三年、他の女性に視線を割いた事例は観測されていない。

ペン先を止めた。

事実の羅列られつだけで、もう答えが出ている。だがロザリンドは、自分自身にこそ誰よりも厳しく検算けんさんする。

次の項。


自分の状態について

一、ルーカス殿の声を聞くと判断速度がわずかに低下する。第三四半期しはんき試算の際、平常時の約一・四倍の所要時間を要した。

二、彼が他国の使者に応対している間、紅茶の味が普段より苦く感じられた。茶葉ちゃばは同じであった。

三、昨夕、その言葉を聞いた際、手元の焼き菓子を無意識に握りつぶした。私の感情処理装置たる甘味摂取せっしゅ行動の、明白な機能不全である。

そして──現在、本紙の前で、ペンを持つ指がわずかに震えている。

ロザリンドはペンを置いた。自分の右手をじっと見る。たしかに、ほんの少し、震えていた。

長く、息を吐く。

──……これを、なんと分類するつもりなの、ロザリンド。

頭の中で、もう一人の自分が、呆れたように呟いた。

田中律子たなかりつこ。28歳。誰にも見つけてもらえないまま、ある朝倒れた女。

彼女だって、紙とペンは持っていた。残業時間も、体調の異変も、手帳の隅に几帳面に書き留めていた。ただ、その一冊を見つけてくれる人が、最後まで現れなかっただけ。

──でも、私は、見つけてもらえた。

見つけてもらえたのに、自分から動かないでどうするの。ここで行かなかったら、律子に顔向けできないわ。

ロザリンドは羽根ペンを取り直し、項目の末尾に、一行だけ書き足した。

以上の状態は、『好意』と分類するのが妥当だとうである。

書いたあと、しばらく、その一行を見ていた。


不思議な気分だった。

ガッツポーズで婚約破棄こんやくはきを歓迎したあの日から、私は自分の感情を「処理すべき案件」として扱ってきた。怒りも悲しみも皮肉に変換し、右から左へ流す。それが前世からの解放だと、本気で思っていた。

けれど、この一行を書き終えたとき、胸の中で何かが少しだけ温まった。

「処理」ではなく「保有」してもいい感情が、世の中にはあるらしい。

そういえば、机の隅に、いつもの焼き菓子と紅茶が置かれていた。誰が用意したのかは、聞かなくてもわかる。

普段は「無理をしないように」と書かれた小さな紙片が添えられている。今朝は、違った。

短く、こう書いてあった。

結論を急がなくていい

ロザリンドは、その一文を二度読んだ。

──急ぐなと言われると急ぎたくなるのが、私の性分しょうぶんですわ、閣下。

声には出さず、心の中だけで返事をする。それでも口の端が、ほんの少しだけ上がった。彼に見られていなくてよかった、と思うくらいには緩んだ顔だった。


最後の項。

合理性チェック。

一、能力的補完率ほかんりつ、ほぼ百パーセント。財政と税制に歪みを抱えた大公国に、私の専門領域がそのまま噛み合う。

二、祖国アルバート王国と教会勢力の干渉かんしょうを、最終的に遮断しゃだんできる。

三、私個人の生存戦略として、評価される場・名前を呼ばれ続ける環境・対等な伴侶はんりょ・倒れる前に気づいてくれる人、その全てが既に揃っている。婚姻はそれを契約として明文化めいぶんかする手続きにすぎない。

四、前世の田中律子が手に入れられなかった要件ようけんの、ほぼ全てを満たす。

ペンを止める。

最後の一項を書きながら、ロザリンドはほんの少し、声を漏らした。

「えーと……これ、結局のところ、私から行くのが筋ですよねぇ、契約的に」

咳払いを一つ。姿勢を正す。

紙の最終行に、彼女は迷いなく書き付けた。

結論──契約条件の見直しを、私から提案する。

書き終えてから、しばらく、紙を見ていた。

窓の外、群青色が薄れて、空の端が白み始めている。誰もいない執務室に、ロザリンドの息遣いきづかいだけが、静かに響いていた。

──律子。

心の中で、前世の自分に、短く話しかける。

──今日、私は、自分の人生の契約書を、自分から書きに行くわよ。

──少しだけ、付き合ってちょうだい。

ロザリンドは紙を丁寧に折りたたみ、本日の議題ぎだいリストの一番下に、新しい項目をしれっと書き加えた。

項目13・雇用契約の見直しについて

書記官が見たら、まず確実に、目を疑う一文だった。

第50話 合理ヒロイン、結論を出す

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『王妃という名の社畜2.0、お断りします』は、前世を思い出した悪役令嬢が、自分の人生を取り戻す物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。