第3話 003

退職届は、夜のうちに〜父の机の上、王家の蝋印が待っていた

やしきの人間が、全員、まだ起きていた。

深夜だというのに。

公爵邸の門前に馬車が停まると、扉が開ききるより早く、玄関ホールの灯りが、ぱっと一斉に点いた。

「お嬢様!」

初老の執事セバスチャンが、足音を立てて駆け寄ってくる。後ろにロザリンド付きの侍女エマ。さらに、本来この時間には休んでいるはずの侍女頭まで、白い夜着の上にショールだけ羽織って顔を出している。

ロザリンドは馬車の踏み台に足を下ろし、ふっと息をついた。

──ああ、噂が、もう先に走ったのね。

王宮から公爵邸まで、馬車で半刻はんときほど。その間に、夜会のざわめきは、どうやら馬車より先に着いてしまったらしい。

「お早いお戻りで……何か、ございましたか」

セバスチャンが声を落として尋ねる。

十年前から、ロザリンドが帳簿を抱えて執務室にこもる癖を見てきた男だ。顔ひとつで、夜会で「何か」が起きたことは察している。

ロザリンドは外套の留め金をはずし、侍女頭の腕の上に滑らせた。その拍子に、胸元のポケットでかすかに紙の鳴る音がした。

──ヴェルナント大公国経済顧問。年俸。執務室の独立。違約金条項。署名欄、ロザリンド・エイベル。

帳簿屋の癖で、重要書類は必ず体の中央寄りに。前世、終電の鞄から企画書をスられかけて以来、ずっとそうしている。

ロザリンドはポケットの上に軽く手を当ててから、ごく短く告げた。

「セバスチャン。婚約は破棄されました」

「は」

「向こうから、です」

侍女頭の手が、外套の上で一瞬止まった。エマが小さく息を呑む。

ロザリンドは、ふっと笑った。

「それから、転職先が決まりました」

「……は、はい?」

「ヴェルナント大公国経済顧問。年俸はあとで一緒に確認していただきたいのですけれど、悪くない条件ですわ」

セバスチャンが、何度かまばたきをした。

」「」「」が、同じ三秒のうちに飛んでくる。──老執事をもってしても、さすがに想定外だったらしい。

「お、お嬢様。あの、お父上には──」

「明日の朝、ご報告します。今夜は寝かせて差し上げて。ご老体に、いっぺんに話せる量じゃないわ」

「……かしこまりました」

セバスチャンは深く頭を下げて、それから少しだけ、声を低くした。

「お嬢様。今夜は、よくお休みください」

ありふれた、当たり前のひとこと。

なのにロザリンドは、玄関ホールの大理石の上で、一瞬だけ立ち止まった。

──この国で、「ロザリンド」と呼んでくれていたのは、たぶん父と、この老執事だけ。

ほかの誰も、私の名前を呼ぶ用事を、もう持っていない。

「お嬢様?」

「……いいえ、何でもないわ。ありがとう、セバスチャン」

ロザリンドは階段に足を掛けた。前世で言うところの、終業後の駅の階段に、よく似た足の重さがある。

ただし、今夜は明日の出勤がない。

退職届は、向こうから来た。


自室のドアを閉めると、ようやく一人になった。

ロザリンドは扉に背を預け、大きく息を吐いた。

それからドレスの後ろ紐に手を回し、自分で器用に解いていく。侍女を下がらせたのは、誰の手も借りずに脱ぎたかったからだ。

ドレスの重みが、足元にどさりと落ちた。

窓辺へ歩いて、留め金をはずす。秋の夜風が、薄い肌着の上を撫でていった。

──と、そのとき。

邸の塀の外。馬のひづめが、石畳を叩く音が、かすかに通り過ぎた。

夜回りにしては、足の速さがおかしい。

ロザリンドは一拍だけ耳を澄ませ、それからすぐに窓を閉めた。

「公爵家の警邏けいらでも増えたのかしら」

独り言は、すぐに消えた。

ドレッサーの鏡に、見慣れた銀髪の女が映っている。

結い上げた髪のピンを、一本ずつ抜いていく。

ピン一本ごとに、王太子の婚約者という肩書きが、ぱらり、ぱらりと落ちていく気がした。

途中で、廊下のほうから、侍女頭の声がした。

「お嬢様、白湯を、扉の外に置いておきますね」

「ありがとう。下がっていいわ」

足音が遠ざかる。最後の一本を抜いて、ロザリンドは鏡の中の自分を見つめた。

「……ロザリンド」

久しぶりに、自分の口で、自分の名前を呼んでみる。

ちゃんと、ある。「王太子妃殿下」になる前に、ちゃんと、引き取った。

椅子に座って、胸元のポケットから契約書の写しを取り出す。署名欄を、もう一度だけ、指でなぞった。

ロザリンド・エイベル。

公爵令嬢でも、元婚約者でも、悪役令嬢でもない、ただの私の名前。

律子

呼びかけは、誰にも聞かれない小ささだった。

「あなたが守りたかった名前、今夜、ちゃんと、契約書に書けたわよ」

返事はもちろん、ない。

燭台の炎が、ほんの少しだけ揺れた。

ロザリンドは小さく笑って、契約書を枕の下に滑り込ませた。これも前世の癖だった。大事な書類は、寝る時、体の下に。


──同じ頃、王都の反対側で。

ひとりの男が、誰にも見せない角度で、口角を上げていた。

王都の反対側。古い修道院を改築した宿、その最上階。

漆黒の正装を肘掛けに掛けた男は、椅子に深く座り直し、初めて、息を吐いた。

七年仕えてきた側近すら、知らない呼吸の仕方だった。

「閣下。エイベル邸の周辺、配置完了しました」

寡黙な剣の側近が、扉の前から短く報告する。

「ご苦労」

ルーカスは答えず、窓の外、エイベル公爵邸のある方角を見ていた。

「……それと、閣下。差し出がましいことを申し上げますが」

「言ってみろ」

側近は、声をひとつ落とした。

「契約書に『』と求められた件、いかがなさいますか。あれは──」

「ああ」

ルーカスは、窓ガラスに映る自分の顔から、視線をそらした。

そらした横顔の口角が、ほんの少しだけ上がっている。今夜、この男が誰にも見せなかった角度の表情だった。

「と、申しますと」

「あの女が、自分の名前を契約書に書きたいと、わざわざ口にしなければならない国にいた。──それだけのことだ」

側近は、答えなかった。

主の声が、いつもより半度ほど低かったからだ。

ルーカスは、もう一度、窓の外を見た。

呟きは、夜の冷気に溶けて消えた。

ルーカスは椅子の背にもたれ、ようやく側近の方へ振り返った。

口角は、もう元の温度に戻っている。

「明朝、迎えの馬車を出す。──それと」

「は」

「あの女には、明日のうちに伝えるべきことが、ひとつだけある」

側近が片眉を上げた。

主の声に、今夜、初めて聞く種類の熱が混じっていた。


──翌朝。

エイベル公爵邸、二階奥。父の書斎の扉の前で、ロザリンドは一度だけ、深呼吸をした。

ノッカーに手を伸ばす前に、扉が、内側から開いた。

公爵は、もう外出着に着替えていた。

「入りなさい、ロザリンド」

夜会の話は、もう父の耳にも届いているらしい。

机の上には、封の切られた書状が一通。差出人の蝋印ろういんは、見覚えのある紋章だった。

その隣に、もう一通。

まだ封の切られていない、白い書状。

蝋印は──王家のものだった。

「ロザリンド」

父の声は、いつもより、半度ほど低かった。

「──お前、本当にいいんだな?」

ロザリンドは小さく頷いて、扉の内側へ足を踏み入れた。

退職届の宛先は、ここから先だ。

第3話 退職届は、夜のうちに〜父の机の上、王家の蝋印が待っていた

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『王妃という名の社畜2.0、お断りします』は、前世を思い出した悪役令嬢が、自分の人生を取り戻す物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。