第51話

義弟

俺は、人を信じるのが怖い。物心ついた頃から、ずっとそうだ。

笑いかけてくる相手の懐に、刃が隠されていないか。差し出された手が、俺を引きずり倒すための手ではないか。誰のことも、心の底からは信じられなかった。

なのに、たった一人だけ。

俺が心から信じてしまった男が、いた。

――妹の、夫だ。

浅井長政(あざい ながまさ)。

近江(おうみ)の小谷(おだに)を治める若き武将で、俺の妹のお市(いち)を娶ってくれた男だ。つまり、俺の義弟(ぎてい)ということになる。

この男が、とにかくまっすぐな、いい男だった。

律儀で、誠実で、嘘の匂いがまるでしない。会えば、俺のことを「義兄上(あにうえ)、義兄上」と人懐こく慕い、剣の話、馬の話で、いつまでも笑い合えた。

人の前では低く言い切って、魔王のふりをしている俺が。

長政の前でだけは、ふと肩の力が抜けるのだ。

世間は、この縁組を、こう見ていた。

「織田は、妹を浅井に嫁がせ、近江の浅井を巧みに味方に引き入れた」

「さすが、天下布武の御方。縁組さえ調略の一手よ」

調略。一手。

聞くたびに、俺は苦笑する。そんな立派なものじゃない。

俺は、ただ妹に幸せになってほしかっただけだ。そして、できることなら、一人でいいから、損得ぬきで信じられる相手が欲しかっただけだ。

長政は、その両方を叶えてくれる男だった。

小谷を訪ねると、お市が嬉しそうに出迎えてくれた。長政の隣で笑う、妹の顔。

その顔を見るたびに、俺は胸の奥が温かくなった。人が怖くて誰も信じられない俺の人生に、こんなにもまぶしい光景があるのか、と。

長政が、酌をしながら言った。

「義兄上。何があろうと、この長政、義兄上のお味方にございます」

その言葉を、俺は一片の疑いもなく信じた。

信じてしまった。

帰蝶は、そんな俺を横で静かに見ていた。ある夜、ぽつりと言った。

「殿は、長政どのをずいぶん好いておられますな」

「……ああ」

俺は、素直に頷いた。

「あいつは、信じられる。妹も、幸せそうだ。俺には、もったいない義弟だ」

帰蝶は、何か言いかけて、けれど口をつぐんだ。その横顔が、ほんの少し案じるように曇っていたことに。

そのときの俺は、気づかなかった。

俺は、長政を信じていた。義弟というより、もう一人の弟のように。

人を信じるのが、あれほど怖かった俺が。生涯でただ一度、心の鍵を開けて見せた相手。それが、長政だった。

――だから、後で。

すべてが音を立てて壊れたとき。

俺は、どう受け止めればいいのか。

まるで分からなかったのだ。

第51話 義弟

ページの先頭へ

BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『信長の野望 本能寺は変』は、戦国一の臆病者が「ただの優しい人間」に戻りたくてもがく物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。