第60話

追い詰められて

逃げ場が、ない。

その感覚が、いちばん嫌いだ。金ヶ崎(かねがさき)で、前を朝倉に、後ろを長政に塞がれたときの、あの袋の鼠の恐怖が、また蘇ってきた。

中立でいてくれ、という俺の願いを、山は聞き入れなかった。延暦寺は、浅井・朝倉を匿い続けた。俺の背後に、刃を抱えた山がそびえている。そういう状態になった。

考えてみてほしい。俺の領地のすぐそばに、敵を匿い、僧兵を擁し、いつ背後を突いてくるか分からない、巨大な山がある。

夜も、眠れなかった。いつ、あの山から軍勢が雪崩れてくるか。いつ、寝首を掻かれるか。俺のもっとも苦手な種類の恐怖だった。

家臣たちは、口々に言った。

「山を攻めましょうぞ。背後の憂いを、断つべきです」

「叡山(えいざん)が敵に回った今、もはや容赦は無用かと」

俺は、その言葉を聞くたびに、胃が縮んだ。攻めるなど、したくない。だが、攻めなければ、俺が殺される。

家臣たちは、俺のこわばった顔を見て、「殿は決断を迷っておられぬ」と、頼もしげに頷いていた。

迷っている。迷ってばかりいるのだ。ただ、それを口に出す勇気すら、なかった。

俺は、もう一度、使者を送った。最後の通牒(つうちょう)だった。

『浅井・朝倉を引き渡すか、せめて、山を下りて退いてくれ。さもなくば、儂にも考えがある』

そう書かせた。書きながら、手が震えていた。頼む。どうか、応じてくれ。これ以上、俺を追い詰めないでくれ。

だが――山は、応じなかった。返事は、来なかった。沈黙が、答えだった。

俺の最後の願いも、風に消えた。

寺には、寺の理屈があったのだろう。千年、守ってきた聖域の誇りが。俺のような新興の田舎大名の脅しに、屈するわけにはいかなかったのかもしれない。それは、分かる。頭では、分かる。

だが――俺には、もう、退く道がなかった。

俺は、岐阜の城で、一人、頭を抱えた。どうすれば、いい。寺を攻めるなど、したくない。仏罰が怖い。坊主が怖い。人を殺すのが怖い。だが、放っておけば、背後から殺される。

帰蝶が、俺の肩に、そっと手を置いた。

「無理を、なさいますな」

そう言ってくれた。俺は、頷くこともできなかった。

「……どうすれば、よい」

掠れた声で、そう訊いた。帰蝶は、すぐには答えなかった。答えがないことを、帰蝶も分かっていたのだ。どちらを選んでも、地獄だった。

俺は、もう、どうしていいか分からなかった。

そして、その日が、来た。

第60話 追い詰められて

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『信長の野望 本能寺は変』は、戦国一の臆病者が「ただの優しい人間」に戻りたくてもがく物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。