第40話

藤吉郎だけは、味方だ

その夜から、何かが変わった。俺と、藤吉郎の間で。

口に出して、何かを約束したわけではない。ただ、俺は知っていた。こいつは俺の正体を知っている。そして、それを決して漏らさない。藤吉郎も知っていた。俺がそれを知っていることを。二人だけの、秘密だった。

それからの藤吉郎の世話焼きは、いっそう行き届くようになった。

俺が怖がる前に、怖いものが片づいている。俺が胃を痛める前に、薬湯が用意されている。俺が人に疲れる前に、要らぬ客が追い返されている。

不思議なものだ。こいつは、俺が「怖い」と口にする前に、俺が何を怖がっているかを察してしまう。俺自身より先に、俺の胃の痛みに気づいている。

「殿は、お忙しい。後日になされませ」

そう言って、藤吉郎は俺の苦手な客人を、にこやかに捌いてしまう。俺は何もしなくていい。ただ、奥に下がって震えていればいい。

震えていても、笑われない。逃げても、蔑まれない。この男の前でだけは、俺は魔王の顔を作らなくてよかった。

考えてみれば。俺の人生は、ずっと気の休まらぬものだった。

人が、怖い。背後が、怖い。刃物が、怖い。だから、誰の前でも気を張って、魔王の仮面をかぶり続けてきた。その仮面は、一度かぶれば外せない。外した瞬間に喉を掻き切られる気がして、寝ているあいだですら、俺は歯を食いしばっている。

その仮面を外せる相手は、ただ一人――帰蝶だけ、だった。奥に下がって、帰蝶の前でだけ、俺は息ができた。肩の力が抜けて、ようやく、ただの怯えた男に戻れた。

だが、いまは。表にも、一人、いる。

藤吉郎の前でだけは、俺は見栄を張らなくていい。怖がってもいい。震えてもいい。こんなに楽なのは、初めてだった。

俺は心の中で、何度もつぶやいた。

帰蝶と、藤吉郎。

奥の帰蝶と、表の藤吉郎。この二人の前でだけ、俺はちゃんと息ができる。

世間のすべてが、俺を化け物だと恐れても。この二人だけは、俺をただの臆病な男のまま、側にいてくれる。

藤吉郎だけは、味方だ。

そう思うと、長いことずっと凍えていた胸の奥が、じんわりと温かくなった。怖くて、孤独だった俺に。とうとう、二人目の味方ができたのだ。

思えば俺は、土俵の上でしか、人の温もりに触れたことがなかった。刃物を持ち込めぬ裸の力士とだけは、怯えずに肌を合わせられた。それが俺の、たった一つの人恋しさの逃げ場だった。

だが、いまは違う。土俵の外にも、俺のそばにいて怖くない者が、二人もいる。

俺は、決めた。この猿だけは、何があっても手放さない。側に置いておく。出世もさせてやる。俺の側にいられるように。それが俺にできる、精一杯の礼のつもりだった。

だが。俺がこの奇妙な猿を引き立てれば、引き立てるほど。家中の者たちは、それをまったく別の意味に取り始めていた。

たとえ、世間が何と言おうと。俺はこいつだけは手放すまいと、心に決めていた。

第40話 藤吉郎だけは、味方だ

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『信長の野望 本能寺は変』は、戦国一の臆病者が「ただの優しい人間」に戻りたくてもがく物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。