第56話

神算鬼謀

藤吉郎は、生きて帰ってきた。死地で見事に追っ手を抑え、本隊を逃がし切って。ぼろぼろになりながら、それでも、にっと笑って戻ってきた。

俺は、その顔を見た瞬間、もう少しでまた泣くところだった。危ういところで、こらえた。魔王が、家臣の生還ごときで泣くわけにはいかぬ、らしいのだ。

俺も、京へ逃げ帰った。なりふりかまわず。脱兎(だっと)のごとく。情けなく。

それでいいと、思っていた。

生きて帰れた。それ以上の、何が要る。

ところが。世間の見方は。俺の思いとは、まるで違っていた。

「聞いたか。上総介殿の退き口を」

「前後を挟まれた、あの絶体絶命から。損害を最小に抑えて、鮮やかに兵を退かれたという」

「挟撃を一瞬で見抜き、即座に退却をお決めになった。あの、判断の速さよ」

「攻めるはたやすく、退くは難し。見事に退いてこそ、真の名将。上総介殿の冷静沈着、底が知れぬ」

神算鬼謀。

電撃の、撤退。

名将の、証。

俺の、なりふりかまわぬ逃走は。いつのまにか、そんな立派な名で呼ばれていた。

違う。何度でも、言う。俺は、ただ怖くて逃げただけだ。

挟撃を見抜いたのではない。挟まれて、頭が真っ白になって、ただ逃げ出したのだ。

判断が速かったのではない。考える前に、足が勝手に動いただけだ。

そこに、神算も鬼謀もない。

あったのは。

ただの、どうしようもない恐怖だけだ。

「殿の、あの退き際の見事さ……」

家臣が、うっとりと語るのを聞きながら。俺は、頭を抱えたくなった。

逃げ足が速かっただけで。なぜ、こう名将にされてしまうのか。

俺が、震えながら後ろを振り返って逃げていたことを。

藤吉郎を死地に残して、泣いていたことを。

誰も、知らない。

知らないまま、俺の臆病は、また一つ、輝かしい伝説に化けていった。

京の、宿所で。帰蝶だけは。俺を、こう迎えた。

「よう、逃げ帰られましたな」

「……ああ」

「上等にございます。生きて帰られた。それに勝る手柄は、ありませぬ」

俺は、その言葉に、ようやく肩の力が抜けた。

逃げ帰ったことを。

「逃げ帰った」と、まっすぐ言ってくれる人が。

俺には、一人だけ、いた。

俺は、ただ逃げた。情けなく、なりふりかまわず逃げた。

なのに、世間は、それを「名将の証」だと言う。どこまで間違えれば、気が済むのだ。

――だが。

間違えてくれていたほうが。

まだ、よかったのかもしれぬ。

本当の地獄は。

この後に、待っていた。

俺は、間もなく。

裏切った、その長政自身と。

刃を交えることに、なるのだから。

第56話 神算鬼謀

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『信長の野望 本能寺は変』は、戦国一の臆病者が「ただの優しい人間」に戻りたくてもがく物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。