第62話

覚えていない

これから先のことを、俺は、ほとんど覚えていない。

桶狭間のときと、同じだ。恐怖が消えて、俺という人間が、体のずっと後ろへ押しやられた。手綱を、誰かに奪われた。

だから、ここに書けるのは、後で人から聞いた話と、夢に出てくる、切れ切れの断片だけだ。それ以上は、書けない。書きたくも、ない。

順序もなく。脈絡もなく。ただ、いまも、ふとした夜に、突然、蘇ってくる。俺は、そのたびに飛び起きる。そして、二度と眠れなくなる。

恐怖が、消えた。死の淵で、すうっと、潮が引くように。あれほど俺を縛りつけていた怖さが、跡形もなく消えた。その代わりに、俺という人間が、どこか遠くへ押しやられた。体の手綱を、誰かに奪われた。そういう感覚だけが、最初の断片だ。

断片。

誰かが、叫んでいた。喉が裂けるような、声で。それが俺の声だったと知ったのは、ずっと後のことだ。

断片。

俺の手に、松明(たいまつ)があった。なぜ、それを握っていたのか、分からない。ただ、頭の奥の声が繰り返していた。『焼け。脅威を、すべて消して、生き延びろ』と。俺は――火を放っていた。

断片。

熱が、あった。頬を炙るような熱が、近くにあった。俺は、その熱を、どこか他人事のように感じていた。

断片。

風が、あった。その夜、山には、風があったのだ。火が、木から木へ、堂から堂へ移っていく。赤い色が、視界の隅で揺れていた。俺は、それを遠くで見ていた。自分が何をしているのか、掴めないまま。

止めようとした。心のいちばん奥で、必死に叫んだ。やめろ。もう、やめてくれ。そんなつもりじゃ、ない。だが、体は聞かなかった。

そこから先を。俺は、知らない。順序も、数も、何一つ思い出せない。ただ――頭の奥の声だけが、生きろ、生きろ、と繰り返していた。

そして、いつのまにか。俺の周りには、刃を向けてくる者がいなくなっていた。迫ってくるものが、なくなっていた。なくなった、その意味を。俺は、まだ知らなかった。

どれほどの時が流れたのか。それも、分からない。ほんの一瞬だったような気もするし、夜通し続いていたような気もする。

ただ、覚えているのは。最後に、頭の奥の声がふっと静かになって。俺の体が、その場に崩れ落ちたこと。そこで、断片は途切れている。

次に、俺が何かをはっきりと覚えているのは。もう、夜が明けてからのことだ。

俺は、火を放っていた。そこから先を、俺は知らない。知りたくも、ない。

だが――山は、燃えていた。俺の放った、火で。

第62話 覚えていない

ページの先頭へ

BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『信長の野望 本能寺は変』は、戦国一の臆病者が「ただの優しい人間」に戻りたくてもがく物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。