第61話

山に入る

軍を率いて、山の麓(ふもと)に着いたとき。

俺はもう、引き返したくてたまらなかった。見上げれば、霧の向こうに、黒々とした山がそびえている。あの上に、武装した僧兵がいる。あの上で、人と人とが殺し合うことになる。

殺したくない。殺されたくない。どちらも同じくらい、俺には耐えがたかった。

胃が、きりきりと痛んだ。帰りたい。岐阜に帰って、帰蝶と静かにしていたい。畑でも耕して、誰も殺さず、誰にも怯えず、それだけで生きていたい。いつもの本音が、頭の中でぐるぐると回った。

家臣たちは、俺の顔色を見て、こう囁いていたらしい。

「殿の、あの静かな面構えを見よ」

「仏の山を攻めることに、一片の迷いもない。なんと、肝の据わった」

「神仏すら恐れぬ、お覚悟よ」

違う。迷いしか、ない。顔がこわばっているのは、覚悟のせいではなく、恐怖のせいだ。口が利けないのは、肚が据わっているからではなく、怖くて声が出ないからだ。

進むしか、なかった。ここまで来てしまった以上、退けば、それこそ背後を突かれる。ここで退けば、味方も、まとめて殺される。俺一人の恐怖で、皆を死なせるわけにはいかない。そう、自分に言い聞かせた。

それでも、足がすくんだ。俺は、震える足を叱りつけて、山道を登り始めた。

木々が、両側から迫ってくる。道は、細く、暗い。俺のいちばん嫌いな種類の場所だった。逃げ場のない、暗がり。

一歩、進むごとに、心臓が跳ねた。木の影が、人に見える。風が枝を揺らす音が、刃の鳴る音に聞こえる。喉がからからに渇いて、唾を飲もうにも飲み込めない。手綱を握る手だけが、じっとりと汗ばんでいた。俺は、何度も、立ち止まりそうになった。

背後の家臣たちは、その俺の様子を、微塵も疑わなかったらしい。

「殿は、ひと言も発せられぬ」

「聖なる山に兵を向けるという大罪を、無言で背負うておられるのだ」

違う。言葉が出ないのは、覚悟のせいではない。喉が恐怖で締めつけられて、声にならないだけなのだ。

帰りたい。帰りたい。帰りたい。頭の中で、その言葉だけが鳴り続けていた。

それは、突然だった。

木々の影から。鬨(とき)の声とともに。薙刀を構えた僧兵たちが、一斉に襲いかかってきた。

「魔王を、討て――!」

「仏敵を、ここで、葬れ――!」

刃が、すぐそこまで迫ってくる。何本もの薙刀が、頭上で鈍く光った。逃げようにも、道は細い。両側は、木々と崖だ。戻ろうにも、後ろからも別の僧兵が回り込んでくる。

囲まれた。

また、だ。また、逃げ場がない。

俺の体が、固まった。心臓が、肋を突き破りそうに暴れ出す。息が、できない。吸っても吸っても、肺に届かない。冷や汗が噴き出して、背も胸も、じっとりと全身を濡らしていく。歯の根が合わず、かちかちと鳴った。視界が、端から白くにじんでいく。

殺される。逃げ場が、ない。死ぬ。ここで、死ぬ。

やめてくれ。俺は、誰も殺したくない。俺だって、死にたくない。

恐怖が、俺の耐えられる限界を。

超えた。

その、瞬間。頭の中で、ぷつり、と。何かが、切れた。

第61話 山に入る

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『信長の野望 本能寺は変』は、戦国一の臆病者が「ただの優しい人間」に戻りたくてもがく物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。