第54話

退き口

悲しんでいる暇は、なかった。このままでは、前と後ろから押し潰される。逃げなければ。

そう考えるより、先に。俺の体は、もう動いていた。

「退くぞ」

俺は、短く言った。

声だけは、低く言い切った。家臣に、震えを悟られぬよう。

だが、心の中は、たった一つの言葉で埋め尽くされていた。

逃げたい。

逃げたい、逃げたい、逃げたい。

死にたくない。生きて帰りたい。帰蝶のいるところへ。

その一心が、ほかのすべての思考を追い越していった。

俺は、わずかな供だけを連れて。大軍を置き去りにして。戦線を離脱した。

馬の腹を蹴る。脇目もふらず。ひたすら京へ向けて駆ける。

総大将が。

軍を捨てて。

真っ先に逃げ出す。

情けないにもほどがある。後の世に語り草にもなろう。そんなことは、分かっていた。分かっていて、なお。俺の足は、止まらなかった。

駆けながら、俺は、何度も後ろを振り返った。追っ手が、来てはいないか。長政の兵が、朝倉の兵が、すぐそこまで迫っていないか。

木立の影が追っ手に見えて、ぞっとする。風の音が馬蹄(ばてい)に聞こえて、心臓が跳ねる。冷や汗で、全身が濡れていた。手綱を握る手が、滑るほどに。

それでも、俺は駆けた。

ただ生き延びたい、その一念だけで。

頭の隅で、ちらとよぎる。置き去りにしてきた大軍は、どうなるのか。あの兵たちは、俺のために命を賭けてくれているのに。

申し訳なさが、胸を突く。だが、それより恐怖のほうが、ずっと大きかった。

俺は、自分の情けなさに吐き気を覚えながら。

それでも、馬の腹を蹴り続けた。

生きたい。

その一心は、誇りも見栄も踏み潰して進んでいく。

朽木(くつき)という地を抜けるとき。土地の者が、道案内を買って出てくれた。

正直、それすら信じてよいのか怖かった。この者も、俺を谷底へ誘い込む罠かもしれぬ。

そう疑いながら。それでも、ほかに道はなく。俺は、震えながら、見知らぬ者の背中を追った。

裏切られたばかりの俺には。

人を信じることが、もうできなくなっていた。

俺は、逃げた。ただ、ひたすらに逃げた。死にたくない、その一心で。

そこに、計略も采配もなかった。あったのは、ただの恐怖だけだ。

大将が、真っ先に逃げ出すなど。情けないにも、ほどがある。

――なのに。

後に、このなりふりかまわぬ逃走は。「神算鬼謀(しんさんきぼう)の電撃撤退」として。恐ろしいほど立派な名で、語り継がれることになるのだ。

第54話 退き口

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『信長の野望 本能寺は変』は、戦国一の臆病者が「ただの優しい人間」に戻りたくてもがく物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。