第46話

天下布武

たった四文字の印が、戦国のすべてに向けた果たし状になった。俺は、そんなつもりはまったくなかったのに。

地名の次は、印だった。

「殿。書状に捺す御印を、新たにお作りなされませ」

また、例の学者たちだ。

「天下の主たるお方には、それにふさわしい御印が入り用にございます」

俺は、ため息をついた。正直、印などありものの花押(かおう)で十分だと思っていた。だが、断ればまた、長々と説かれる。あの熱意に付き合うくらいなら、適当に頷いておいたほうが楽だ。

「儂は構わぬ。何かめでたい字を並べておけ」

俺は、低い声で短く言い捨てた。内心は、ただ面倒事を早く終わらせたかっただけだ。だが家臣には、その素っ気なさが「些事に拘らぬ大器の風格」と映ったらしい。

学者たちは、何やらひそひそと相談し、やがて一枚の紙を差し出してきた。そこには、こう書かれていた。

『天下布武(てんかふぶ)』

「武をもって、天下に平らかな世を布く。――殿のご大望を、四文字に込めましてございます」

俺は、その四文字を見つめた。

天下、布、武。

正直に言えば、字面が立派だな、と思った。それだけだ。

「武」の字が、少しだけ引っかかった。俺は本当は、武など振るいたくない。刀も、槍も、戦も、怖い。血を見るのも嫌だ。できることなら、「天下泰平」とか「無事息災」とか、そういう穏やかな字にしてほしかった。

だが、それを言うのも面倒だった。学者に「なにゆえ、武の字をお嫌いか」などと問い詰められたら、答えに窮する。まさか、「戦が怖いからだ」とは言えぬ。だから、めでたい字だと言うのだから、まあいいだろう、と流した。

「うむ。これでよい」

俺は、その印を用い始めた。ただの、四文字の判子として。

その判子を。俺は、諸国への書状に捺した。挨拶の書状にも。和議の書状にも。何でもない、ただの便りにも。赤い印が、ぺたりと捺される。

『天下布武』

すると――書状を受け取った相手は、ことごとく青ざめた。

「織田の書状に、見慣れぬ印が」

「『天下布武』――武をもって、天下を布く、と」

「これは……織田信長が、天下を武で平らげると、公に宣言したということではないか」

俺は、また頭を抱えた。

違う。ただの、判子だ。学者が並べた、めでたい字を、勧められるまま捺しているだけだ。なのに、その四文字は、捺すたびに相手を震え上がらせた。

「織田は、本気で天下を獲りに来る」

そう読んだ大名たちは、いっそう警戒を強めた。あちこちで、織田に備える動きが始まったらしい。中には、わざわざ使者を寄越して、こちらの真意を探ってくる者もいた。

「『天下布武』とは、いかなるご存念にて」

そう問われるたび、俺は返答に困った。まさか、「学者に勧められて、字面が立派だったから捺しているだけだ」とは言えぬ。そんなことを言えば、軽んじられる。軽んじられれば、攻められる。だから俺は、口をへの字に結んで、ただ黙っていた。

すると、使者は勝手に青ざめた。「お言葉もない。底知れぬ、ご覚悟じゃ」と。俺は、ただ答えに詰まっていただけなのに。

つまり――俺が書状を出せば出すほど、黙っていれば黙っているほど、敵が増えていくのだ。

夜、俺はその印を手に取って、眺めた。

赤い、四文字。俺にとっては、ただの判子だった。だが、世間にとっては。

これは、戦国のすべての大名に向けた――果たし状だったのだ。

「勝手に、読むな」

俺は、誰にも聞こえぬ声で呟いた。俺はただ、断るのが怖くて。流されるまま、立派な字を捺しているだけなのに。

その印の重みが、日に日に俺の肩にのしかかってくるのを、感じていた。

第46話 天下布武

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『信長の野望 本能寺は変』は、戦国一の臆病者が「ただの優しい人間」に戻りたくてもがく物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。