第86話

私も、もう、限界でした

光秀は、しばらくうつむいて、肩を震わせていた。俺は、何も言わずに待った。急かしてはいけない、気がした。

この男が涙をこぼすところなど、初めて見た。いつも背筋を伸ばし、寸分の隙もなく役目をこなす、あの生真面目な光秀が。その堅い殻が、いま、静かに割れていくのが分かった。

やがて、光秀は絞り出すように口を開いた。

「……殿。お許しくださいませ。私はいま、安堵してしまいました」

「安堵?」

「はい」

光秀は、涙を拭おうともせずに続けた。

「私はずっと、怖かったのです」

「明日は、どの役目を押し付けられるか。どこでしくじって、お叱りを受けるか。寝ても覚めても、胃がきりきりと痛んで。夜中に何度も、目が覚めました」

俺は、思わず胸を押さえた。胃が痛い。夜中に目が覚める。それは、俺が四十八年、ずっと抱えてきたものと、寸分も違わなかった。

「上には織田家のご威光がのしかかり、下からは家臣どもが突き上げてくる。そのあいだに挟まれて、私はただ、すり減っていくばかりでした」

「誰にも言えませなんだ。弱音を吐けば、役立たずと思われる。だから歯を食いしばって、きちんとやり遂げるふりをして参りました」

ぽつり、ぽつりと。

この律儀な男が、初めて本音をこぼした。

ああ、と俺は思った。

こいつも、同じだったのか。

てっきり、俺だけだと思っていた。この重い看板の下で、たった一人、震えているのだと。

だが、違った。

降りたいのに降りられず、重荷に潰されそうになりながら、それでも歯を食いしばって立ち続けてきた。

光秀は、俺と、同じ顔をしていた。

魔王と、逆賊(ぎゃくぞく)。世間はそう呼ぶ二人が、その内側では、まったく同じ、ただの疲れきった男だった。

「殿のお話を、伺って」

光秀は、ふっと笑った。

泣きながら笑う、その顔は、憑き物が落ちたように見えた。

「ああ、私だけではなかったのだ、と。あの、誰よりも強く見えたお方も。私と同じように震えておられたのだ、と」

「正直、申し上げます。私も、もう」

光秀は、まっすぐに俺を見た。

「限界でした」

「やりましょう、殿」

「光秀……」

「私が、裏切り者になります。喜んでなりましょう。それで殿が、あなたが楽になれるなら」

俺は、光秀の手を取った。

かさついた、冷たい手だった。俺のと同じ、ずっと何かに耐えてきた男の手だった。

長年、主従だった二人が。

このとき初めて、対等の共犯者として、しっかりと手を握り合った。

「すまぬ、光秀。汚れ役を、押し付ける」

「なにを。私が、望んで引き受けるのです」

光秀は、もう泣いていなかった。

その顔には、憑き物が落ちたあとの、不思議なほど穏やかな笑みが浮かんでいた。

降りたい者どうしが、ようやく出会えた夜だった。

こうして、世界一ばかげた段取りに、もうひとり、降りたい男が加わった。

第86話 私も、もう、限界でした

ページの先頭へ

BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『信長の野望 本能寺は変』は、戦国一の臆病者が「ただの優しい人間」に戻りたくてもがく物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。