第64話

普通の人間に

その夜のことを、俺は、生涯、忘れない。

岐阜の城に戻っても。俺は、まだ、震えが止まらなかった。灰のにおいが、髪にも肌にもこびりついて、離れない気がした。目を閉じれば、あの静まり返った焼け野原が、瞼の裏に浮かぶ。飯も、喉を通らなかった。誰とも、口を利きたくなかった。

夜が、更けて。部屋に、帰蝶が来た。そっと、襖を開けて。俺が、暗がりのなかで膝を抱えて座っているのを見ても。帰蝶は、何も言わなかった。驚きも、しなかった。

仏の山を焼いた魔王が、部屋の隅で、子どものように丸くなっているのを見ても。ただ、静かに近づいて。俺の隣に来て、座った。灯りも、点けずに。闇のなかで、ただ、そこにいてくれた。

それで――俺のなかの、何かが切れた。ずっと、ずっと、堪えていた、何かが。俺は、帰蝶の前で、子どものように泣き出した。

「……帰蝶」

声が震えて、言葉にならない。それでも、俺は、初めて、すべてを吐き出した。ずっと、誰にも言えなかった、本当のことを。

「俺は……みんなを、怖がらせたくなんて、ないのだ」

「ただ、穏便に暮らしたいだけだ。誰も、傷つけたくない」

「なのに……やばくなると、体が勝手に動いて」

「勝手に、人を……殺してしまう」

「気づいたら、いつも、誰かが死んでいる。俺の、手で」

しゃくり上げながら、俺は、続けた。

「もう……限界だ」

「もう、いやだ。怖いのも、殺すのも、恐れられるのも、ぜんぶ、いやだ」

そして、俺は、初めて、それを声に出した。ずっと、心の底に沈めていた、たった一つの願いを。

「俺は……ただの、普通の、人間に」

「戻りたい」

言った、瞬間。胸のいちばん奥が、ぐしゃりと崩れて。俺は、また、泣いた。

普通の人間。誰にも怯えず、誰も殺さず、誰にも恐れられず。ただ、静かに生きる。そんな当たり前のことが、俺には、どうしても手に届かなかった。

言い終えて。俺は、自分の両手を見た。火を放った、この手を。たくさんの命を奪った、この手を。震えて、止まらない、この手を。

「……こんな手では、もう、帰蝶の手も握れぬ」

そう、呟いた。

帰蝶は。何も、言わなかった。慰めも、励ましも、口にしなかった。ただ――俺の手を、握った。冷たく、こわばった、俺の手を。両手で、包むように握って。ずっと、離さずにいてくれた。

帰蝶だけが、知っていた。俺の涙が、勝鬨ではないことを。俺が、魔王などではなく、ただ、怯えて泣いている、一人の男だということを。

帰蝶は、何も言わずに。ただ、俺の手を握っていてくれた。

――その温もりだけが、その夜、俺を、人間でいさせてくれた。

第64話 普通の人間に

ページの先頭へ

BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『信長の野望 本能寺は変』は、戦国一の臆病者が「ただの優しい人間」に戻りたくてもがく物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。