第91話

生きろ

帰蝶の手を握ったまま、俺は蘭丸を振り返った。

この子は、まだ俺の下知を待っている。

主とともに最期まで戦うつもりで、涙をこらえながら刀を構えている。まだ、あどけなさの残る顔だった。俺のそばに置いて、幼い頃から目をかけてきた、大事な小姓だった。

俺は、知っていた。

この計画には、どうしても辻褄を合わせるための犠牲が出てしまう。誰かが本当にここで戦い、本当に死なねば、「謀反」は本物にならない。

だが。

俺は、この子だけは死なせたくなかった。

「蘭丸」

俺は、できるだけ静かに言った。

「お前は、生きろ」

蘭丸が、息を呑んだ。

「逃げろ。ここで死ぬな。お前は、まだ若い。儂のことなど忘れて、どこか遠くで生きてくれ」

頼む。

頼むから、逃げてくれ。

お前まで、俺のばかげた段取りのために死なせたくない。

だが。

蘭丸は、ゆっくりと首を横に振った。

「……なりませぬ」

涙に濡れた、声だった。

「殿を置いて、私だけ逃げるなど。森蘭丸(もり らんまる)、生涯の恥にございます」

「お逃げください。この蘭丸が、敵をここで食い止めまする。一人でも多く、殿のお背中から遠ざけまする」

俺は、言葉を失った。

喉の奥が、熱く詰まった。何か言おうとしても、声にならなかった。

この子は最後まで、俺を魔王だと信じていた。

その魔王を守るために、たった一人、この炎の中に残って、命をなげうとうとしている。

俺の、ばかげた自由のために。

俺がただの臆病者だと、これはぜんぶ、自分が楽になるための芝居だと、そう打ち明けてしまえば、この子は逃げてくれただろうか。

いや。

きっと、それでも。この子は笑って、こう言ったに違いない。

「ならば、なおさら。お逃がしいたします」と。

炎が、二人のあいだで吼えた。もう、時間がない。

「……蘭丸」

俺はそれだけ言って、奥の間へ踵を返した。

背中で、刀を構え直す衣擦れの音がした。敵へ向かって駆けていく足音がした。

俺は、振り返れなかった。

振り返れば、足が止まってしまうから。振り返れば、あの子を抱きしめて、一緒に死んでしまいたくなるから。

一歩、また一歩。

奥の間へ向かう自分の足音が、やけに大きく響いた。背後の喊声が、剣戟の音が、少しずつ遠くなっていく。

そのひとつひとつが、あの子の命が削れていく音のように聞こえて。

俺は、唇を噛んだ。

帰蝶の手が、俺の手を強く握った。

「殿。あの子の命を、決して無駄にはなさいませぬよう」

無駄になど、するものか。

俺のこのささやかな自由は。

この子の命の上に。

ほかの、名も知らぬたくさんの者たちの命の上に。

築かれている。

全員は、救えなかった。

俺の優しさは、とうとう最後まで、誰一人こぼさずに救うことができなかった。

それを俺は、一生忘れない。

第91話 生きろ

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『信長の野望 本能寺は変』は、戦国一の臆病者が「ただの優しい人間」に戻りたくてもがく物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。