第87話

二条城の段取り

京に、入った。

俺は本能寺へ、嫡子の信忠は近くの二条城(にじょうじょう)へ入った。

その夜。

俺はひそかに、信忠を呼んだ。

第十一の、安土の夜。俺はこの息子に、「降りたいのは儂も同じだ」と漏らした。そして約束した。「近いうちに、お前にも儂の本当の肚を話す」と。

その約束を、今夜、果たすときが来た。

俺は信忠に、すべてを打ち明けた。魔王でもなんでもない、ただの臆病者であること。桶狭間も比叡山も、恐怖でわけが分からなくなった果ての、覚えていない出来事だったこと。光秀と組んで、近いうちに自分は「死んだことに」して消えること。

この子は、幼い頃から、俺を遠くから見て育った。近づけば、震えているのがばれてしまう。だから俺は、実の息子にすら、魔王の面をかぶって接してきた。そのぶん、この子は父を、恐ろしい天下人だと思い込んで大きくなった。

その思い込みを、いま、俺は一つずつ、剥がしていった。

信忠は目を見開いて、長いあいだ、言葉を失っていた。

「父上は……本気で、天下を捨てるおつもりなのですか」

「ああ」

「あれほどのものを。すべて……」

「お前は、どうだ、信忠」

俺は息子の目を見て訊いた。

「中継ぎの天下を継いで、一生怯えながら生きていきたいか。それとも――」

信忠の唇が、かすかに震えた。

「……継ぎたく、ありませぬ」

絞り出すような、声だった。

「夜ごと、夢に見るのです。家臣に裏切られ、敵に囲まれ、父上のように強くもなれぬまま、潰されていく自分を。……怖くて、たまらぬのです」

俺の胸が、ぎゅっと締めつけられた。

この子も、俺と同じ夢を見ていたのか。強い父の背中を追いかけて、追いつけずに苦しんでいたのか。その父が、実はいちばんの怖がりだったなどとは、知りもせずに。

すまなかった、と思った。これまで、この子を、たった一人で怯えさせてきたことを。

「なら」

俺は、静かに言った。

「お前も、一緒に降りろ」

信忠が、はっと顔を上げた。

「明智が本能寺を囲む、その夜。お前は二条城で戦って。そして――討死したことにしろ」

「討死した、ことに……」

「儂は本能寺で、お前は二条城で。同じ夜に、親子そろって死んだことになる」

俺は初めて、息子に笑いかけた。

「そうして二人とも、こっそり生き延びるのだ」

信忠の目から、ぼろぼろと涙がこぼれた。

それは、恐れの涙ではなかった。

長いあいだ、父を遠い魔王だと思い込んでいたこの子が。

その父が、実は自分と同じ、ただの怖がりだったと知って。

ようやく、本当の父に出会えた涙だった。

俺も、目の奥が熱くなった。この子とこんなふうに、涙を見せ合える日が来るとは、思ってもみなかった。

「……はい、父上。お供、いたします」

父と子は、同じ夜に、同じように死んだことになる。

そして、同じように生き延びる。

第87話 二条城の段取り

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『信長の野望 本能寺は変』は、戦国一の臆病者が「ただの優しい人間」に戻りたくてもがく物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。