第90話

是非に及ばず

「明智の謀反にございます! いかがなさいますか、殿!」

蘭丸が、もう一度叫んだ。涙声だった。

炎は、もう天井を這っている。寺ぜんたいが、巨大な松明のように燃えていた。外の喊声が、近づいたり、遠ざかったりする。

誰一人、この炎の壁を越えて踏み込んでこられずにいる。

そうだろうとも、と俺は思った。

誰も近づけない。何年も、何十年も、俺を「魔王」だと思い込ませてきたおかげだ。みんな、俺が怖い。だから、この炎の中へ確かめに来る者など、いやしない。

ずっと、俺を苦しめてきた、この看板が。

ここに来て、ようやく、役に立った。

恐れられている、ということは。誰も、近づいてこない、ということだ。

近づいてこない、ということは。

俺が、ふっと消えても。誰も、追ってはこられない、ということだ。

焼け跡から、黒焦げの骸が出てきたとて。「これは本当に信長か」などと、わざわざ確かめに来る、命知らずは、いない。

皆、震えながら、「魔王は死んだ」と信じ込んで。それで、終わる。

考えてみれば、可笑しな話だ。

俺が臆病だったから、鍛えた。臆病だったから、鉄砲を集め、南蛮の胴を着込み、皆を遠ざけた。

その臆病が、ぜんぶ、「魔王」の証と見なされて。

その「魔王」の看板が、いまこの瞬間、俺を炎の中から逃がしてくれる。

臆病が、臆病を、救うのだ。

それで、いい。

それが、いる。

「お下知を……っ」

俺は、燃える梁を見上げた。喉が、煙で焼けるように痛い。心臓は、まだ、こわいくらいに暴れている。芝居だと分かっていても、この熱は本物だ。この煙も、この火の粉も、みんな本物だ。

だから、怖い。

だが、怖がっている場合ではない。言うべき言葉は、もう、何年も前から決めてあった。

震える唇を、ひらいた。

「是非(ぜひ)に及ばず」

『是非に及ばず』

蘭丸が、息を呑んだ。

その六文字を、この子はきっと、覚悟の言葉として聞いただろう。

逃げも、悔いもせぬ、魔王の壮絶な最期の決意として。後の世も、そう書き残すに違いない。

違うんだ。

これは、合図だ。

何年もかけて、たった一人と二人だけで組み上げてきた、世界一ばかげた段取りの、最後の合図。

しゃあない。やるか。逃げるぞ。

――そういう、意味だった。

奥の間で、衣擦れの音が、もう一度した。

帰蝶が、すべてを察して、待っている。

俺は、燃える襖の向こうへ、手を伸ばした。

闇の中から、細く、温かい手が、俺の指を、しっかりと、握り返してきた。

ああ。

この手だ。

俺が、人に怯えながら生きてきた、長い、長い、年月の中で。

ただ一人、まっすぐに、俺の手を取ってくれた、人の手だ。

「行くぞ、帰蝶」

「はい」

たった、それだけの、言葉で。

通じ合える、相手が。

俺には、いた。

だが。

その合図は。

ひとりの、忠臣の、命を、奪う合図でも。

あった。

第90話 是非に及ばず

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『信長の野望 本能寺は変』は、戦国一の臆病者が「ただの優しい人間」に戻りたくてもがく物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。