第89話

その夜が、来た

喊声で、目が覚めた。

まだ夜も明けきらぬ刻だ。障子の向こうが、妙に明るい。

朝焼けではない。

火だ。

矢の風切る音が、何本も、何本も、庭を裂いて飛ぶ。馬のいななき。鎧の擦れる音。それが四方から、寺をぐるりと囲んでいる。

囲まれた。

背筋が、すうっと冷たくなった。手のひらに、じっとりと汗が滲む。怖い。心臓が、肋の内側で暴れている。四十八にもなって、何度、段取りを胸の内で繰り返しても。いざ本物の炎に囲まれれば、この体は、こうも正直に震える。

だが、その震えの、いちばん奥で。

俺は、ひどく静かに、思っていた。

ああ、やっぱり、来たか。

来たのだ。

俺と、光秀が、組み上げた、その夜が。

桔梗(ききょう)の旗だ。明智が、約束どおり、寺を囲んだ。約束どおり、火を放った。

すべて、予定どおりに、運んでいる。

「殿! 殿、お目覚めを!」

廊下を駆けてくる足音。襖を開け放って飛び込んできたのは、蘭丸(らんまる)だった。顔が真っ青で、声が裏返っている。

「謀反にございます! 寺の外、ことごとく敵兵! あれは……あれは、明智の桔梗の旗にございます!」

明智。

光秀。

そうか、と俺は思った。胸の奥で、ひどく静かに、そう思った。

そうだ、光秀だ。あの、すり減って、泣きながら笑った、降りたい者どうしの、相棒だ。よくぞ、つらい役を、引き受けてくれた。

なのに膝は震えている。歯の根が合わない。怖いものは、いつまで経っても怖いままだ。知っていても、怖い。芝居だと、分かっていても、本物の炎は、本物の熱で、頬を焼く。

「殿……」

蘭丸が、すがるような目で俺を見上げている。

この子はきっと、俺が何か途方もない一手を打つと信じている。第六天魔王が、炎の中で哄笑し、敵をまとめて薙ぎ払うとでも。

違うんだ。

俺はただ、怖いだけの男だ。

ずっと、そうだった。

そして、これから俺がするのは。

魔王の、最期の、抵抗ではない。

ただの、臆病な男の。世界一ばかげた、逃亡だ。

炎が、廊下の端を舐めはじめた。熱が頬を撫でる。煙が、喉の奥に苦い。

俺は立ち上がり、壁にかけた弓へ手を伸ばした。指先が、まだ震えている。

奥の間で、衣擦れの音がした。あの人が――帰蝶が、息をひそめて、こちらを見ている気配がする。

――大丈夫だ。すぐに、行く。

そう、目だけで告げる。

「殿、いかがなさいます。お下知を」

蘭丸が問う。

俺は弓を握りしめた。炎の向こう、桔梗の旗の群れを見据える。

言うべき言葉は、もう決めてあった。

第89話 その夜が、来た

ページの先頭へ

BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『信長の野望 本能寺は変』は、戦国一の臆病者が「ただの優しい人間」に戻りたくてもがく物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。