第70話

そこからが本番だ

「違う」

俺は、もう一度言った。

「それは、誇れない姿なんかじゃない」

家康が、けげんそうに顔を上げた。

俺はその絵を指さした。眉間にしわを寄せて、いまにも泣きそうな家康の顔を。

「それは、生き延びた男の顔だ」

「覚えているか」

俺はその場に腰を下ろした。家康のすぐ隣に。冷えた床から、ひやりと寒さが伝わってきた。

「人質の頃のことだ。お前と俺と、二人で夜な夜な震えていた。いつ殺されるか分からなくて、布団の中で歯を鳴らしていた」

家康の目が、わずかに揺れた。

「あのとき、俺はお前に訊いた。『お前も、死ぬの怖いか』と」

「……ああ。覚えている」

家康の声が、少しだけ子供のそれに戻った。

「お前は泣きそうな顔で頷いた。それから二人で誓ったろう。『筋肉は、裏切らない』と。怖いから、せめて強くなろう、と」

「あれから俺たちは、狂ったように体を鍛えた。腹が減れば芋をかじってでも、鍛えるのをやめなかった。強くなれば、怖くなくなると信じて」

「いいか、家康」

俺はあいつの肩に手を置いた。人に触れるのが、あれほど苦手な俺が。こいつの肩にだけは、自然と手が伸びる。

「臆病者で、いい」

ゆっくりと言った。一語ずつ、あいつの胸に置くように。

「みっともなくて、いい。震えて、逃げて、馬の上で泣いたっていいんだ。だってな。逃げてでも、生き延びさえすれば。そこからが――本番だ」

家康の目から、ぽろりと涙がこぼれた。膝の上に、ぽつり、と落ちた。

「無様に生き残った者だけが、次の戦に立てる。死んでしまえば、それで終わりだ。何も残せない。悔やむこともできない。逃げて生き延びたお前は、ちゃんと正しいんだ」

「その絵は、お前が兵に詫びる顔だ。次はもう死なせない、と誓う顔だ。そんな顔を描かせる主が、どこにいる。俺はそんなお前を、無様だなんて、これっぽっちも思わん」

俺はそう言って笑った。

「その絵はな、無様の絵じゃない。『生きて帰ってきたぞ』という、勝ちの絵だ。臆病な自分を誇っていい」

それから俺は、手を打って家臣を呼んだ。

蔵から運ばせたのは――俺の宝物だ。

ありったけの鉄砲だった。何百という種子島が、家康の前に積み上げられていく。黒々とした筒が、次から次へと運び込まれる。命より大事に買い集めた、俺の保身のコレクション。眺めているだけで息が楽になる、あの、俺の心の支えだ。

「持っていけ。全部、お前にやる」

家康が、目を丸くした。それはそうだろう。俺がこの筒を、どれほど後生大事にしていたか、こいつは知っている。

「織田殿、これは、織田殿の……」

「いいんだ。お前がこれで、遠くから敵を撃てるなら。もう二度と、あんな近くで、馬の上で震えなくて済むなら。安いものだ」

俺にとって鉄砲は、命の次に大事な宝だった。その宝を、惜しいとは思わなかった。

こいつが生き延びてくれるなら。それでいい。

家康は、しばらく言葉をなくしていた。

それから、深く、深く頭を下げた。

「織田殿」

声が、震えていた。

「俺は――あなたに、一生ついていく」

そのとき、俺はまだ知らなかった。

その言葉が、のちにどれほど俺を救うことになるか。

第70話 そこからが本番だ

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『信長の野望 本能寺は変』は、戦国一の臆病者が「ただの優しい人間」に戻りたくてもがく物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。