第33話

目を覚ました何か

ここから先のことを、俺は、ほとんど覚えていない。

断片だけが、いまもときどき夢に出る。脈絡もなく、順序もなく。

だから、これから書くことは、後で人から聞いた話と、わずかに残った俺自身の切れ切れの記憶を、つなぎ合わせたものだ。俺が本当に見ていたのかどうかさえ、もう、定かではない。

恐怖が、消えた。

死の淵で、すうっと潮が引くように。あれほど俺を縛りつけていた怖さが、跡形もなく消えた。

代わりに、頭の奥で、声がした。

『殺せ。目の前のものを、全部薙ぎ倒して、生き延びろ』

それが、合図だった。

俺という人間が、体のずっと後ろの方へ押しやられた。手綱を、誰かに奪われたみたいに。

覚えているのは、自分の腕の感覚だけだ。見たこともない力が満ちていった。鍛え抜いた体が、俺の意思を待たずに、勝手に動きだした。

槍を、振るっていた。誰かが叫んでいた。喉が裂けるような、獣じみた声で。それが俺の声だと知ったのは、ずっと後のことだ。

どこをどう動いたのか。何人を相手にしたのか。順序も数も、何一つ思い出せない。

ただ、目の前の脅威が一つ、また一つと消えていく感覚だけがあった。怖いとも思わなかった。痛いとも思わなかった。何も感じなかった。

気づけば、囲んでいたはずの兵が、いなくなっていた。

いや――そうじゃない。

倒れていた。

俺の足元に、泥にまみれて、いくつも、いくつも。俺は、その上を踏み越えて進んでいた。雨上がりのぬかるみが別の色に変わっていくのを、どこか遠くで見ていた。

止めようとした。心の奥で、必死に叫んだ。やめろ、もう、やめてくれ、と。だが、体は聞かなかった。

俺は、もう、俺じゃなかった。

冷や汗と返(かえ)り血で、全身がぐっしょりと濡れていた。どこまでが汗で、どこからが血か、もう分からなかった。恐怖から流れた涙が、頬を伝っていた。そんな姿で、何かを叫びながら、ただ前へ、前へと刃を薙いでいた。自分が何をしているのか掴めないまま。

ただ、頭の奥の声だけが繰り返していた。生きろ、生きろ、生きろ、と。

どれほどそうしていたのか。時間の感覚は、なかった。

ふと――前を遮るものが、なくなった。振るおうとした槍が、空を切った。その手応えのなさで、俺は、ようやく、ほんの少しだけ我に返りかけた。

肩で、激しく息をしていた。腕が、鉛のように重かった。

そして、目の前を、見た。

俺は、何をしていたのか。

気づいたとき、俺の前には――倒れた、今川の本陣の旗が、あった。

第33話 目を覚ました何か

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『信長の野望 本能寺は変』は、戦国一の臆病者が「ただの優しい人間」に戻りたくてもがく物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。