第50話

望まぬ高みへ

俺は、天下なんて欲しくなかった。ただ、怯えずに生きたかった。それだけだったのに、気づけば俺は、天下の真ん中に立たされていた。

一五六八年。俺は、足利義昭という人を奉じて、京へ上った。落ちぶれた将軍家の血を引く、その人を担いで。大軍を率いて、都へ入る。世にいう、上洛(じょうらく)だ。

道々、沿道には人が群がった。

「あれが、織田の軍勢か」

「天下布武の御旗じゃ。ついに、織田さまが京へ」

俺の姿を一目見ようと、押し寄せる、人、人、人。俺は、そのおびただしい人波を見て――背筋が凍った。

人が、多い。多すぎる。この中に、何人、俺を狙う者が紛れているか、分かったものではない。弓を引く者が、いるかもしれぬ。鉄砲を構える者が。物陰から、刃を投げる者が。

京は、天下の真ん中だ。天下の真ん中ということは――天下じゅうから俺を狙う者が集まってくる場所だ、ということだ。

注目が集まれば集まるほど。仰がれれば仰がれるほど。俺を殺したい者の数も、増えていく。俺は、馬の上で南蛮胴の固さを確かめながら、ただ震えていた。

なのに、誰もが俺を仰いだ。

「織田さまは、ついに天下人への道を歩み始められた」

「天下布武の御旗のもと、乱れた世もいよいよ静まろう」

将軍を担ぎ、京を制した、若き覇者。それが、世の見る俺の姿だった。

違うんだ。俺はただ、田舎で。帰蝶と二人、誰にも怯えず、畑を耕して、静かに暮らしたいだけなのに。なぜ、こんな、いちばん人の多い、いちばん危ない場所まで来てしまったのだろう。

その夜。京の宿所で、俺は一人、膝を抱えていた。

そこへ、帰蝶がそっと入ってきた。俺の隣に腰を下ろし、しばらく黙っていてから、ぽつりと言った。

「ずいぶん、遠くまで来てしまいましたな」

「……ああ」

「もう、逃げ場のないところまで来てしまわれた。そうでしょう」

俺は、答えられなかった。帰蝶は、俺の本音を何もかも分かっていた。

「ですが」と、帰蝶は静かに続けた。

「私は、ここにおりますよ。どこまで上らされても。隣におります」

襖の向こうから、声がした。

「殿。薬湯を、お持ちいたしました」

藤吉郎だった。

「お腹を痛めておいででしょう。これをお飲みなされませ。京の水は、殿の腹には合いますまい」

俺の胃が痛んでいることを、言う前から見抜いている。俺は、薬湯を受け取った。温かさが、手のひらから染みてきた。

奥に、帰蝶。表に、藤吉郎。この望まぬ高みでも、二人だけは俺の本性を知って、俺の側にいてくれる。それだけが、俺の救いだった。

宿所の、別の一角では。光秀が、まだ灯りの下で書状を認めていた。

京に上れば、上ったで、調整する事は際限なく増える。あの男はまた、その真ん中ですり減っている。

俺たちは、みな望まぬ高みで無理をしていた。俺も。光秀も。ただ、俺には帰蝶と藤吉郎がいた。

あの男には――まだ、誰もいなかった。

俺は、天下なんて欲しくなかった。ただ、怯えずに生きたかっただけだ。なのに、気づけば天下のど真ん中に立たされていた。降りられぬ階段の、いちばん目立つ段の上に。

そして、この望まぬ高みで。俺はやがて――生涯で最も信じ、最も愛した、一人の義弟(ぎてい)に背かれることになる。

第50話 望まぬ高みへ

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『信長の野望 本能寺は変』は、戦国一の臆病者が「ただの優しい人間」に戻りたくてもがく物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。