第68話

三河の友が、負けた

その知らせは、冬のある日に届いた。

三河の家康が、武田信玄(たけだ しんげん)に、三方ヶ原(みかたがはら)で大敗した、と。

俺は、手にしていた湯飲みを取り落とすところだった。中の湯が跳ねて、指を濡らした。熱いのか冷たいのかも、分からなかった。

武田信玄。

甲斐(かい)の虎。戦国にその人ありと、知らぬ者のない名将だ。率いる軍は恐ろしく強い。馬も兵も、まるで研ぎ澄まされた一振りの刀のようだ。正直に言えば、俺は信玄が怖くて、怖くてたまらなかった。名を聞くだけで、胃の腑がきゅっと縮む。

あの人が本気で、こちらへ向いてきたら。

俺の鉄砲が何挺あっても、足りるかどうか分からない。千挺の筒を並べても、あの虎の前では、子供の玩具のように思えた。

その虎が、いよいよ西へ、京を目指して兵を動かしたと聞いたとき、俺は正直、逃げ出したくなった。あの人の進む先には、俺がいる。だが、その手前には、三河の家康がいた。

その信玄に、家康が挑んで敗れた。

聞けば、それはそれは無様な負けだったという。城に籠もってやり過ごせばよかったものを、若い家康は血気に逸って、野でぶつかってしまった。そして武田の軍に揉みつぶされ、命からがら城へ逃げ帰った。

供の者も、次々に討たれたという。あいつの身代わりになって、討たれた者もいたと。馬の上で震えていたとも聞いた。手綱を握る手が白くなるほど強張っていた、と。

それを聞いて、家臣たちは口々に言った。

「徳川どのも、まだお若い。武田を相手に、無謀が過ぎましたな」

「あの惨めな敗けようは、しばらく語り草になりましょう」

誰かが、くすりと笑った気配がした。

語り草。

その言葉を聞いた途端。

俺の胸が、ぎゅっと痛んだ。

笑えるか。

俺には笑えない。

だって、俺には分かるのだ。いま、あいつがどんな顔をしているか。馬の上で、どれほど震えていたか。逃げる背中に、どれほどの恐怖が貼りついていたか。手に取るように分かる。

なぜなら、俺と家康は。

この世でいちばん、よく似た臆病者どうしだからだ。人質だったあの頃、二人で布団にくるまって、暗闇に怯えて夜を明かした仲だ。あいつがどれほど怖がりで、どれほど泣き虫か、俺は誰よりも知っている。

その男が、あの武田を相手に、命からがら逃げてきた。いま、あいつの心は、ずたずただろう。逃げた恥ずかしさより、また殺されるのではないかという恐怖で、押しつぶされそうになっているに違いない。

俺は、すぐに馬を用意させた。

家臣は止めた。武田がまだ近くにいる。危のうございます、殿みずから赴くなど、と。

だが、俺は聞かなかった。

あいつが、一人で震えている。それだけで俺は、いても立ってもいられなかった。武田が怖いのは、いつもどおり怖い。だが、それより、あいつを一人にしておくことのほうが、耐えられなかった。

俺は、すぐにあいつのもとへ向かった。

あの、人質の竹千代のもとへ。

第68話 三河の友が、負けた

ページの先頭へ

BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『信長の野望 本能寺は変』は、戦国一の臆病者が「ただの優しい人間」に戻りたくてもがく物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。