第93話

中国大返し

その報せが備中(びっちゅう)の陣に届いたとき。

羽柴秀吉(はしば ひでよし)は、声をあげて泣き崩れたという。

「殿がっ……上様が、明智めにっ……」

地に手をつき、肩を震わせ、人目もはばからず号泣した。大の男が、鎧の胴を土にこすりつけて、子どものように泣いた。その涙は、篝火に照らされて、本物の光を放っていたという。

居並ぶ将は皆、もらい泣きをした。これほど主君を慕う家臣が、ほかにいようか、と。

――というのは、ずっと後になって、猿自身が笑いながら俺に話したことだ。

畑の畦に並んで座って、握り飯を頬張りながら。

「いやあ、殿。あのときばかりは、このハゲネズミ、まんまと一本取られましたわい。報せを聞いて、将たちの前で、こう、地面をばんと叩いて、本気で号泣してしまいましてな。……いま思えば、いっとう嘆いておったのが、いっとう間抜けでしたわ」

「……言えなくて、すまなかった」

それ以上言葉が出なかった。俺のためにこいつは、家臣の前で本気で泣いたのだ。

けれど、その秀吉がやがて全てを察してくれたおかげで、俺はいま、こうして生きて飯を食っている。

秀吉の動きは、異様に速かった。

本能寺の凶報を聞くやいなや、対峙していた毛利(もうり)と電光石火で和睦(わぼく)を結ぶ。そして全軍を、京へ向けて取って返した。世に言う、中国大返(ちゅうごくおおがえ)しである。

二百里を超える道のりを、わずか十日。

将も兵も、半泣きで走った。草鞋(わらじ)がすり切れ、足の裏が血まめだらけになっても、秀吉は止まらなかった。夜は松明の火が長い列をなして山道を這い、昼は土煙が空を覆った。飯もろくに食わず、眠らず、ただ東へ、東へと。

「走れ! 走れ! 上様の仇を討つのだ!」

倒れかけた兵の腕を自ら引き起こし、自分も泥まみれになりながら、秀吉は先頭を駆けた。

その背を見て、家臣たちはふるえた。主君への、これほどの忠義。これほどの執念。やはり羽柴筑前(はしば ちくぜん)という男は、ただ者ではない、と。

そうして秀吉は、山崎(やまざき)の地で明智光秀の軍とぶつかった。

天王山(てんのうざん)。

勝敗は、あっけなくついた。弔い合戦に燃える秀吉の勢いの前に、孤立した明智の軍はもろくも崩れた。

世間はこう語り継ぐことになる。主君思いの羽柴秀吉が、謀反人・明智光秀を見事討ち果たした、と。

だが。

戦のあいだ中、秀吉の心はずっとざわついていた。勝鬨の声の中でも、将たちの賞賛の中でも。たった一つのことが、小さな棘のように、胸に引っかかって離れなかった。

――殿の骸が。

どこを探しても。

見つからないのだ。

焼けた寺からも、逃げ道と思しき先からも。あれほどの大事のあとだというのに、主君の亡骸を見たと言う者が、ただの一人もいない。

戦が終わり、秀吉はただ一騎、焼け落ちた本能寺の跡へ馬を走らせた。賞賛も祝いの席も振り切って、まるで何かに呼ばれるように。

そして、まだ熱の残る焼け跡に立ったとき。

人の心を誰よりも深く読むこの男だけが、たった一つのことに気づいてしまった。

第93話 中国大返し

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『信長の野望 本能寺は変』は、戦国一の臆病者が「ただの優しい人間」に戻りたくてもがく物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。