第81話

まっさきに、帰蝶へ

天主で、あの考えに憑(つ)かれた、その夜のうちに。俺は、帰蝶の部屋の、襖を開けていた。

秀吉でもない。家康でもない。まっさきに、この人に、言いたかった。

九年前。比叡山を焼いた、あの夜。「普通の人間に、戻りたい」と、生まれて初めて声に出して打ち明けた、あの人に。

帰蝶は、俺がこんな刻限に訪ねてきても、驚かなかった。灯を細くした部屋で、脇息にもたれたまま、ただ、静かに俺を見た。

「……帰蝶」

俺の声は、震えていた。着想の高揚と、口にしてしまうことへの怖さとで。

「俺は」

言え。俺は、自分に言い聞かせた。この人になら、言える。

「俺は……死んだことに、なろうと思う」

言ってしまった。第六天魔王を、この世から消す。織田信長を、死んだことにして、ただの人間に戻る――その、途方もない企みを。

帰蝶は、しばらく、何も言わなかった。

そして。

「……ようやく、でございますね」

そう言って、ふ、と笑った。

俺は、面食らった。

「驚か、ないのか」

「驚きませぬ。ずっと、待っておりましたもの。あなたが、その答えに、たどり着かれるのを」

帰蝶は、脇息から、身を起こした。

「比叡山の夜から。あなたが『普通の人間に戻りたい』と泣かれた、あの夜から。わたくしは、ずっと考えておりました。どうすれば、この臆病で優しい人を、あの重たい看板から、降ろして差し上げられるのか、と」

俺は、言葉を失った。

俺が何年も、独りで胸の底に沈めてきた願いを。この人は、俺と同じだけ、いや、俺よりも長く、共に、抱えてくれていた。

「……ついてきて、くれるか」

我ながら、情けない声だった。だが、帰蝶は、あきれたように、けれど、優しく、目を細めた。

「今さら、何を仰います。わたくしは、初夜の晩から、あなたの共犯者でございますよ」

胸の奥が、じん、と熱くなった。

だが――。

俺が、礼を言おうと口を開きかけた、そのときだった。帰蝶の目の色が、すっと、変わった。凛とした、蝮(まむし)と呼ばれた道三の、娘の目に。

「ですが、あなた」

「おひとりでは、無理でございますよ」

俺は、どきりとした。

「考えてもごらんなさいまし。あなたが消えたあと。誰が、あなたの"亡骸"を、誰にも検めさせずにおくのです。誰が、割れた織田の家を、まとめ直すのです。あなたが城を抜ける、その抜け道は。あなたの『死』が作り事だと、万にひとつも、世に悟られぬための手当ては」

指を、一本ずつ、折っていく。

「――何ひとつ、できておりませぬでしょう」

俺は、ぐうの音も出なかった。

天主の上で、あれほど鮮やかに見えた企みが。この人の前では、まだ、ただの、子どもの夢物語だった。

「……お前は」

俺は、呆然と、呟いた。

「もう、そこまで、考えていたのか」

「女子は、殿方が思うより、ずっと、しぶといのでございます」

帰蝶は、悪戯っぽく笑って、それから、まっすぐに俺を見た。

「大丈夫。ひとつずつ、数えていけば、よいのです。あなたの"死"を、信じ込ませる者。あとの世を、継ぐ者。骸を、隠してくれる者。――心当たりは、おありでしょう」

ある。俺の頭の中で、いくつかの顔が、ゆっくりと、浮かび始めていた。

「その者たちを口説くのは、あなたのお役目。段取りを抜かりなく詰めるのは、わたくしのお役目。そして」

帰蝶は、俺の、汗ばんだ手を、両手で包んだ。あの、九年前と、同じように。

「決めた夜。わたくしは、あなたの傍を、片時も離れませぬ。あなたが土壇場で怖じ気づいて、足を止めても。わたくしが、背中を、押して差し上げます。――必ず、二人で、ここを出ましょう」

――ああ。

俺の、世界一ばかげた妄想は。この夜、この人の手の中で、初めて。

"段取り"に、なった。

第81話 まっさきに、帰蝶へ

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『信長の野望 本能寺は変』は、戦国一の臆病者が「ただの優しい人間」に戻りたくてもがく物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。