第52話

越前へ

一五七〇年。

俺は、越前(えちぜん)の朝倉(あさくら)を攻めることになった。例によって、攻めたくて攻めたわけではない。

上洛して将軍を担いだものの、俺の言うことを聞かぬ大名が各地にいる。越前の朝倉も、その一つだった。放っておけば、いつか背後から襲ってくるかもしれぬ。

背後、という言葉を思い浮かべるだけで、うなじのあたりがひやりとする。俺はいつだって、見えないところから来るものが、いちばん怖い。

ならば――怖いから、先に叩く。相手が牙を剥く前に、こちらから届かぬところへ押しのけておきたい。

いつもの、保身だ。勇ましくもなんともない。ただ、夜も眠れるようにしたいだけだった。

越前へ攻め入るには、近江を通る。近江の北は、長政の領地だ。

俺は、軍を進めながら、心の底から安堵していた。なにせ、背後を固めるのが長政なのだ。

妹の夫が、俺の背中を守ってくれている。これほど心強いことが、あるだろうか。

長政は、律儀で、誠実な男だ。俺は、あの真面目な顔つきが好きだった。妹のお市を大切にしてくれているのも、噂に聞いていた。血の繋がった身内よりも、俺はあの義弟を信じていたかもしれない。

人が怖くて、背中を見せるのが何より恐ろしい俺が。

このときばかりは、安心して前だけを見て進むことができた。背後を長政が塞いでいると思うだけで、うなじの冷たさが消えた。振り返らずに歩けるということが、俺にはどれほど楽だったか。

長政は、俺の出兵に協力的だった。兵を出し、道を整え、滞りなく軍を通してくれた。

俺は、ますます思った。やはり、長政は信じられる。

あいつだけは、裏切らない。妹の夫が、俺を裏切るはずがない。

その確信が。

俺の足を軽くし、俺の判断を大胆にした。

戦そのものは、順調だった。朝倉方の城を次々と落とし、軍は、越前の奥へ奥へと進んでいった。

家臣たちは、沸き立った。

「破竹の、ご進撃にございます」

「朝倉も、織田の勢いの前にはなすすべもなし。さすが、天下布武の御方」

俺は、曖昧に頷いた。進みすぎている、という嫌な感じはあった。

だが、背後には、長政がいる。何があっても、退くときは長政の領地を抜けて安全に帰れる。

そう思っていたから。俺は、不安を押し殺して、なお前へ進んだ。

その夜、陣中で。帰蝶が、ふと言った。

「殿。あまり深入りは、なさいますな」

「長政が、後ろにおる。案ずるな」

俺が、そう答えると。

帰蝶は、少し間を置いて、こう言った。

「……長政どのとて、人にございます。後ろに朝倉の血縁があり、前に義兄がおる。板挟みの、つらいお立場やもしれませぬ」

俺は、その言葉を深く考えなかった。長政に限って、そんなことはない。あいつは俺を裏切らない。信じたいものを信じているときの俺は、都合の悪いことに、驚くほど耳を貸さなくなる。帰蝶の心配性だ、とすら思った。

だが、帰蝶は板挟みの者の心を、俺よりずっとよく分かっていた。人が追い詰められて、どちらかを選ばねばならなくなったとき、何を捨てるのか。それを、あの女は静かに見抜いていた。

それが、どれほど的を射た言葉だったか。

俺は、まだ知らなかった。

俺は、安心していた。背後には、長政がいる。妹の夫が、俺の背中を守ってくれている。

そう信じて、疑わなかった。

その、疑わなかったことが。

間もなく、俺を、生涯でいちばん深く抉ることになるのだ。

第52話 越前へ

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『信長の野望 本能寺は変』は、戦国一の臆病者が「ただの優しい人間」に戻りたくてもがく物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。