第74話

降りたい

長篠の勝ちのあと、俺は嫡子(ちゃくし)の信忠(のぶただ)に家督(かとく)を譲った。織田の家を束ねる役目を。天下の重荷を。あの、まだ若い息子の肩に。

世は、これをこう見た。

「織田は、いよいよ盤石。父は天下を睨み、子は家を継ぐ。世代をまたいで、織田の威は揺るがぬ」

立派な世代交代、というわけだ。

だが、俺の本音は、もっと情けないものだった。

降りたかった。

ただ、それだけだ。

この重すぎる天下から、少しでも肩の荷を下ろしたかった。

息子に家督を渡せば、せめて半分くらいは楽になれるのではないか。そんな、ずるい考えがあった。

もっとも――信忠は、そんな父の本音など知らない。あいつから見れば、俺はあいかわらず、近寄りがたい、魔王のような父だろう。

いつか、ちゃんと話せる日が来ればいい。お前にも、本当の俺を見せられる日が。そう思いながら、その日を俺は、ずるずると先延ばしにしていた。

天下は、楽になどならなかった。

家督を譲っても、戦は止まらない。それどころか、信じていた家臣が、また裏切った。

荒木村重(あらき むらしげ)が謀反を起こした。松永久秀(まつなが ひさひで)も背いた。

次から次へと。俺が目をかけた者ほど、牙を剝いてくる。裏切られるのが、いちばん怖い俺にとって。それは心を少しずつすり減らしていく、毒のようだった。

もう、終わりにしたい。そう思う夜が、増えた。

人を疑い、人に怯え、人を斬っては号泣する。そんな日々を、いつまで続ければいいのか。

俺はただ、静かに暮らしたいだけなのに。

それでも、俺は一人ではなかった。

岐阜の城には、帰蝶がいた。俺のすべてを知っていて、なお隣にいてくれる人が。

三河には、家康がいた。「一生、ついていく」と言ってくれた、怖がりどうしの親友が。

そして、遠く中国の地では、猿――いまは羽柴秀吉(はしば ひでよし)と名を改めた、あの男が、俺のために戦ってくれていた。

たった、三人。

けれど、その三人だけは、俺を魔王とも天才とも思わない。ただの臆病な俺を、知っていてくれる。

その三人のぬくもりに支えられて、俺の心の底で、あの願いが静かに育っていた。第九の夜、初めて声に出した願いだ。

普通の人間に、戻りたい。

誰にも怯えなくていい場所で、帰蝶とただ、静かに暮らしたい。

俺はもう、降りたかった。この重すぎる天下から。

だが、どうやって降りればいいのか。それがまるで分からなかった。天下人が天下を捨てる方法など、この世のどこにも書いていない。

――その答えを、俺が見つけることになる場所が、いま、近江の湖のほとりにそびえ立とうとしていた。

あの、安土(あづち)の天主(てんしゅ)だ。

第74話 降りたい

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『信長の野望 本能寺は変』は、戦国一の臆病者が「ただの優しい人間」に戻りたくてもがく物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。