第84話

その日が、来る

天正(てんしょう)十年、六月二日。

織田信長は、京の本能寺(ほんのうじ)で明智光秀(あけち みつひで)に討たれて死んだ。

――ということに、なっている。

後の世の書物には、そう刻まれるだろう。

第六天魔王、家臣の謀反に斃(たお)れる。炎の中で壮絶な最期を遂げた、と。

だが。

俺は、こうして、まだぴんぴんと生きている。

これから起きるのは、謀反でも悲劇でもない。何年も何年もかけて、たったひとりと複数人だけで組み上げてきた、世界一ばかげたバックレの段取りだ。

安土から京へ上る道中。

供の者に囲まれ、馬の背に揺られながら、俺の膝は、いつものように震えていた。四十八になっても、怖いものは怖い。物心ついた頃からずっとそうで、この体だけは、どう鍛えても飼い慣らせなかった。

これから自分の葬式を、自分で出すのだ。しかも、本物の炎の中で。

一歩間違えれば、芝居のはずの死が、そのまま本物の死になる。段取りが一つでも狂えば、俺はあの炎の中で、本当に灰になる。考えただけで、腹がしくしくと痛んだ。掌には、じっとりと汗がにじむ。喉が、からからに渇いている。

いつもの、恐怖のときの体だ。

だが、その震える膝の奥で。

ずっと燻っていた、もう一つの火が。

静かに、確かに、熱を持ち始めていた。

降りられる。

ようやく、この重すぎる看板を降ろせる。

第六天魔王。天下人。誰もが恐れ、誰もがひれ伏す、その大層な肩書きを、まるごと炎に焼き捨てて。

帰蝶と二人で、誰にも怯えなくていい、どこかへ。

背後を気にせず眠れる、暗がりに震えなくてもいい、そんなどこかへ。畑でも耕しながら、静かに生きていける。

天下なんて、初めから欲しくなかった。俺が本当に欲しかったものは、それだけだった。

そんなささやかな夢が、もう手の届くところまで来ていた。

あとは、すべての役者が揃えばいい。

帰蝶は、もう覚悟を決めている。

初夜に震えていた俺を見抜いて、以来ずっと、俺の唯一の共犯者でいてくれた人だ。この最後の大芝居も、あの人は静かに頷いてくれた。

秀吉と家康にも、それぞれ伝える手筈はある。

猿は――秀吉は、まだ何も知らせていないが、あの勘の鋭い男のことだ。事が起きれば、たちどころに何もかも察して、うまく後始末をしてくれるだろう。

家康は、ビビリ同盟の相棒だ。あいつには、いちばん無様で、いちばん大事な役を頼んである。

息子の信忠とも、近いうちに肚を割る。

だが、いちばん肝心なひとりが、まだ残っていた。

この世界一ばかげた芝居で、「裏切り者」のいちばんつらい役を演じてもらう男。後の世まで「主殺しの逆賊」と罵られる、その汚れ役を、俺は一人の男に背負わせようとしていた。

その男の顔を思い浮かべると、胸が、ちくりと痛んだ。

俺は京へ入る前に、あのすり減った男に、本当のことを打ち明けることにした。

まずは、そこから始まる。

第84話 その日が、来る

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『信長の野望 本能寺は変』は、戦国一の臆病者が「ただの優しい人間」に戻りたくてもがく物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。