第92話

地下の道

奥の間の床板の下に、ひそかに掘らせておいた抜け道があった。

刺されないための城を建て、刺されないための堀を掘り、刺されないための道具を、狂ったように集め続けた、臆病者の。その、数えきれない保身の果ての、最後の一つが。

この一本の、地下の道だった。

いつか、この道が自分の命を救うのだと信じて掘らせた。まさか、こんな形で役に立つとは思わなかったが。

帰蝶の手を引いて、俺は闇の中へ降りていった。

背後で、本能寺が轟々(ごうごう)と燃え落ちていく音がした。

俺の半生が、燃えていた。

第六天魔王の看板も、望みもしなかった天下も。すべて、あの炎の中に置いてきた。

地の底はひんやりと暗く、俺たちの足音だけがこだました。あれほど恐れていた暗がりが、いまは、俺を守ってくれている。

歩きながら、俺はずっと泣いていた。

逃げ切れた嬉しさで、ではない。

蘭丸の最後の顔が、「お逃げください」と笑ったあの顔が、闇の中に何度も、何度も浮かんでは消えた。

俺が斬ってきた者たち。俺のせいで死んでいった者たち。政秀。桶狭間の首。比叡山の焼け跡。その一人ひとりの顔が、この暗い道に、ずらりと並んでいるようだった。

俺は、そのすべてを抱えて歩くのだ。

これから、死ぬまで。

帰蝶は何も言わずに、ただ俺の手を握り続けてくれた。その手の温もりだけが、俺をこの世につなぎとめていた。

後の世は、こう記すだろう。

天正十年、六月二日。第六天魔王・織田信長は、京の本能寺にて、家臣・明智光秀の謀反に遭い、炎の中で果てた。

嫡子・信忠も、二条城にて討死。

そして――その遺体は、ついに見つからなかった。

それで、いい。

世間は、信じる。

本物の謀反だったと。本物の悲劇だったと。魔王は家臣に裏切られ、無念のうちに滅んだのだと。

誰も、知らない。

それが、降りたい男たちの組み上げた、世界一ばかげた芝居だったとは。

その男が、いまもこうして、妻の手を引いて闇の中を歩いているとは。

長い地下の道の果てに、小さな出口の灯りが見えてきた。

俺は立ち止まって、帰蝶を振り返った。

煤(すす)に汚れたその顔で、帰蝶がそっと微笑んだ。その顔を見たとき、俺の中でずっと強張っていた何かが、ふっとほどけた。

四十八年。ずっと肩に食い込んでいた、見えない重石が。

いま、そっと、地に降りた。

そして俺は、気づけば泣きながら笑っていた。

蘭丸のことを思って泣きながら。それでも、帰蝶の煤けた顔がおかしくて、可笑しくて、笑っていた。

ああ。

これが、答えだ。

どうして俺が、あの炎の中で、あんなにも怖がりながら、それでも笑って立っていられたのか。

降りられると、知っていたからだ。

第六天魔王は、ここで死んだ。

そして、ただの臆病で優しいだけの俺が。

帰蝶の手を引いて、夜の向こうへ歩き出した。

第92話 地下の道

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『信長の野望 本能寺は変』は、戦国一の臆病者が「ただの優しい人間」に戻りたくてもがく物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。