第35話

第六天魔王

こうして、第六天魔王(だいろくてんまおう)は、生まれた。震えて、泣いていただけの、一人の臆病者の抜け殻から。

俺が首の前で泣いていた、ちょうどその頃。桶狭間の報せは、もう尾張じゅうを駆け巡りはじめていた。そして、その報せは――行く先々で、勝手に尾ひれをつけていった。

「聞いたか。上総介殿が、たった二千で、二万五千の今川を破られたそうな」

「あの海道一の弓取り、義元公を討ち取られたという」

「二千で、二万五千を……まことか。人の業とは、思えぬ」

寡兵で、大大名を討つ。それは、誰の目にも、奇跡か、さもなくば人ならざる業に見えた。

噂は、加速していった。

そして、義元の首の前で泣いていた、あの姿が。伝わるうちに、こうなった。

「義元公の首の前で、上総介殿は、返り血を滴らせ、目には涙すら浮かべて、吼えておられたという」

「涙を……?」

「怒りの涙よ。敵への、激しい怒り。返り血を浴びて、なお猛り狂う。あれは、人ではない」

「聞けば、義元公の首の前で、何か言葉を発しておられたとか」

「呪いの言葉であろう。討ち取った敵将にすら、容赦のない呪詛を吐きかける。ぞっとするお方じゃ」

「鬼神じゃ。いや――第六天魔王の再来じゃ」

第六天魔王。仏法を妨げ、世を乱す、魔界の王。その名が、いつの間にか、俺の二つ名になっていた。

俺が震えて泣いていただけだと知る者は、一人もいなかった。冷や汗を、不敵さと。返り血を、修羅と。号泣を、怒りの咆哮と。何もかもが、ねじれて伝わっていった。

「ごめんなさい」が「呪いの言葉」になり、「殺すつもりはなかった」という嗚咽が「勝鬨」になる。俺の中でいちばん弱くて、いちばん情けない部分が、伝わるうちに、いちばん恐ろしいものへと化けていく。

まるで、俺という人間の像が、俺の手の届かないところで、勝手に鋳造されていくようだった。

違う。

何度でも言わせてくれ。

俺は、魔王なんかじゃない。怖くて、暴れて、たくさん殺してしまって、申し訳なくて泣いていただけの、ただの臆病者だ。

なのに、世間は、俺を化け物だと言う。恐ろしいお方だと、敬い、怯え、遠巻きに平伏する。俺が、一番なりたくなかった姿に。

桶狭間の後、もう一つ、報せが流れてきた。

長く今川の人質となっていた三河の若い領主が、義元の死で、ようやくその手から解き放たれたという。岡崎(おかざき)へ帰ったらしい。

その名を聞いたとき、俺は、なぜか、ほんの少しだけ胸が温かくなった。理由は、自分でもよく分からなかった。

ただ、遠い昔、同じように怯えていた小さな影を、ふと思い出しただけかもしれない。死ぬのが怖いと、二人で震えていた頃を。あいつも、ようやく自分の家に帰れたのか、と。

そのことが後の俺に何をもたらすか――まだ、知る由もなかった。

こうして、第六天魔王は、生まれた。震えて、泣いていただけの、一人の臆病者の抜け殻から。

第35話 第六天魔王

ページの先頭へ

BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『信長の野望 本能寺は変』は、戦国一の臆病者が「ただの優しい人間」に戻りたくてもがく物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。