第85話

光秀。儂を、裏切ってくれ

人払いを、した。

小姓も、近習も、みな遠ざけた。俺は光秀と二人きりで、灯り一つきりの薄暗い一室に向き合っていた。光秀は、ひどく緊張していた。膝の上で、両の手が固く握られている。

無理もない。

主君にこうして密かに呼び出されれば、叱責か、それとも新たな難役か。すり減ったこの男は、きっとそう身構えている。近ごろ叱ってばかりだった。冷たく当たってばかりだった。

――全部、こいつを、遠ざけておくためだったのだが。

そんな言い訳が、いま何の役に立つだろう。

俺は、しばらく迷った。

口にすれば、もう後戻りはできない。三十年近く守り抜いてきた、俺の秘密を、初めて家臣の前でさらけ出すことになる。心臓が、いつもの倍の速さで打っている。

それでも。

俺は生まれて初めて、家臣に本当のことを打ち明ける覚悟を決めた。

「光秀」

「は」

「儂はな。魔王でも、なんでもない」

光秀が、顔を上げた。何を言われたのか分からない、という顔だった。

「ただの臆病者だ。虫一匹、殺すのも怖い。人を斬れば、夜ごとうなされる。暗がりが怖い。背中が怖い。お前たちの前で低く構えているのは、怖くて言葉が出ぬからだ」

俺は、一息に言った。

「桶狭間も、比叡山も。儂が強かったのではない。怖くて、怖くて、わけが分からなくなって。気づけば、ああなっていた、だけだ」

言いながら、俺は目を伏せた。

あの、屍の山を思い出すと、いまでも吐き気がする。

「気づけば、目の前に、人が、山と積み上がっていた。儂は、それを見て、いつも吐いて、泣いた。強いのではない。ただ、怖くて、こわれていた、だけだ」

「殿……何を、おっしゃって……」

「儂はな、光秀」

俺は、声を落とした。

「もう、降りたい。この天下も、魔王の名も。何もかも置いて。消えてしまいたいのだ」

光秀は、絶句していた。

その生真面目な顔が、理解と混乱のあいだで揺れている。信じられない、という目だった。目の前の男が、天下に轟く第六天魔王だとは、とても思えない――そう言いたげな。

だが、嘘ではない。

俺はいま、生まれて初めて、嘘の鎧をぜんぶ脱いでいた。

俺はここで、いちばんばかげた頼みを口にした。

「光秀。儂を裏切ってくれ」

「……は?」

「本能寺を囲んで、火を放て」

「と、殿っ……!」

光秀の顔から、みるみる血の気が引いていく。

「お前は後で、秀吉に討たれて死んだことにすればいい。そうして儂と一緒に、ここから消えよう」

光秀は、声も出せずに、俺を見つめていた。

冗談だと思ったのだろう。あるいは、主君がついに乱心したと。

そのどちらでもないと分かるまで、長い、長い沈黙があった。

やがて。

その生真面目な目から。

ぽろり、と。

涙が、こぼれた。

第85話 光秀。儂を、裏切ってくれ

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『信長の野望 本能寺は変』は、戦国一の臆病者が「ただの優しい人間」に戻りたくてもがく物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。