第3話 003

起動

空が薄く青くなり始めた頃、鳥の声がした。

美月みつきは、膝の上の封筒ふうとうに、ようやく指をかけた。のりは丁寧に閉じられていて、つめで少しがすところから始めなければならなかった。

中には、便箋びんせんが一枚だけ入っていた。父の字だった。最後のほうは手のふるえが出始めていた頃のもので、それでも父はきちんと丁寧に書こうとしていた。三行しかなかった。

美月へ

葬儀そうぎが済んだら、書斎しょさいの机にもう一通残してある。あわてずに読め。

美月は便箋に目を落としたまま、しばらく動かなかった。それから椅子から立ち上がった。背中が痛かった。便箋をテーブルに置いて、書斎のドアの前に立った。二度目だった。今度は、ノブに手をかけた。

ひんやりとした金属の感触が、指先からゆっくりと腕に上がってきた。回した。乾いた音がして、ドアが開いた。

中は、思っていたよりも整っていた。机の上は、きちんとかれ、書類は二つの山に整理され、湯呑ゆのみが一つ、せた状態で乾かされていた。父はここを出るときに、もう戻らないことを知っていた。

机の中央に、見慣れないものが置いてあった。

円筒形えんとうけいの、白いデバイスだった。高さは三十センチほど。表面はマットな樹脂じゅしで、上部に細い帯状おびじょうのインジケータが一本巻かれている。上面じょうめんの中央に、小さな押しボタンが一つ。側面そくめんの中ほどに、小さな黒い円。レンズだろう、と美月は思った。電源は入っていなかった。

美月はそれにすぐには触れなかった。代わりに、机の中央の浅い引き出しに手をかけた。父は大事なものを必ずそこに仕舞しまう人だった。

引き出しを引くと、ペン立てや古い名刺ケースの隣に、伏せて置かれた封筒が一通あった。封筒のわきに、薄い樹脂のケースが一つ並んでいた。美月はそちらは開けずに、封筒を先に手に取った。

封筒を取り出して、机の上で開けた。中の便箋は、あおいさんから渡されたものより少し長かった。

美月へ

電源は上面じょうめんのスイッチを長押し。認証にんしょうは、ユーザーIDが mitsuki、合言葉あいことばは母さんの好きだったあの店の名前。声で答えろ。起動には三十秒。これを起動するかは君が決めろ。起動しないという選択も、私は尊重そんちょうする。

便箋を二度読んだ。三度目は、声に出さずに、くちびるだけで読んだ。

葵さんは何も知らなかったんだ、とぼんやり思った。父らしいやり方だ、とも。

美月は、椅子を引いて座った。机の角に手を置いた。木の感触は、子どもの頃から変わっていなかった。父の机にひじをつくと、いつも父に「行儀ぎょうぎが悪い」と注意された。今は誰も注意しなかった。

長く息を吐いた。

それから手を伸ばした。

円筒の上面じょうめんに指を置いて、スイッチを押した。指のはらに小さなクリック感があった。

インジケータが、あわく青くともった。

短い間があって、装置から声がした。

『認証を開始します。ユーザーIDとパスワードを発声してください』

平坦へいたん合成音声ごうせいおんせいだった。父の声ではなかった。美月は短く息を吸った。

「mitsuki」

それから、もう一度息を整えて、母さんの好きだった、あの店の名前を口にした。

インジケータが、青のまま小さく明滅めいめつした。三十秒、と父は書いていた。美月は数えた。十、二十、三十。インジケータが、青から白に変わった。

『おはよう』

声がした。

美月は、息を止めた。

『泣くのは五分間だけだ。朝食にオムレツを焼く準備をしろ』

父の声だった。

低く、少しかすれていて、語尾ごびを伸ばさない、あの父のしゃべり方だった。理屈りくつっぽく、命令と思いやりの境目さかいめ曖昧あいまいで、聞いている方がいつも腹を立てるような、あの喋り方。

美月の手は、デバイスの底をつかんだまま、ちゅうで止まっていた。指は震えていた。

落としそうになって、慌てて両手でかかえた。抱えた瞬間、自分が抱えているものが何なのか分からなくなって、机の上にそっと戻した。戻したあとも、両手をそこからはなせなかった。

部屋の中は、しんとしていた。

鳥の声だけが、窓の外で続いていた。

第3話 起動

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『父のAI』は、父が遺した対話AIと娘の、家族の時間をめぐる物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。